辰彦が記憶を喪失していたのは、東日本大震災に原因があるみたいだった。およそ三分の二を経過した時点で、この小説は突然、「震災小説」に変貌する。辰彦と菜津子が鹿児島へ行ったのも、原発事故の影響を逃れるためだった。そのことが菜津子の言葉からふいに思い出される。
正直に言えば、ここまでは普通の小説である。震災と原発事故のショックから記憶を失った男の話。そう思っていた。だがこれも違った。そしておそらく天久の小説家としての天分が発揮されるのは、ここからだ。辰彦は、なぜか気になっていたホームレスの男「ネコ爺」に導かれるようにして、彼がそれまで住んでいた日常とは少しだけ違った世界に踏み迷う。彼が入り込んだ世界は、それまでの日常とかなり近接している。というより、地続きだ。だがその世界は、3.11以後の、この世界ではない。なぜなら、世田谷にあった原発が爆発するからだ。そして「手っ取り早く全原発を爆発させる」ことで脱原発を成し遂げようとしているのは、「オサム総理」で、彼は、辰彦が構成作家をやっていた「お子様キングス」に出演していたタレントだった。辰彦は知り合いとこんな会話をする。「『じゃあやっぱり、さっきの爆発も?』/『そう、原発だよ』/『でも東京に原発なんてないでしょ!』/『あったじゃん。世田谷原発』/『なんだそりゃ』なんだかもう、脱力した」。
脱力した辰彦は、自分が悪夢を生きていることを自覚する。整合性のない、無秩序な日常。悪夢は悪夢でも、自分の夢ではなく、他人の夢の中に入り込んだような、抜け出せない夢……。ではこの小説は、夢オチに終わっているのか? そうではない。主人公の思いとは別に、天久は主人公を夢に安住させない。世田谷の原発が爆発した後、小説の登場人物たちは、それまでの役割とは違った形で再び小説の表舞台にあらわれる。サイバーパンクふうのグロテスクな世界に、主人公は放り出される。
小説の最後で主人公が錯乱して終わる小説は数多い。錯乱オチと言われる。だがこの小説はそうではない。妙に覚めた意識で自分がいる世界を見回している。世界は震災と原発事故以後、混乱を極めている。そのことを正確にトレースすれば、他人の悪夢のような、めちゃくちゃな世界にしかなりようがない。辰彦はそうした世界に生きている。辰彦は私たちである。
天久の脳裡には、最初から小説のクライマックスの、辰彦が踏み迷う世界の絵が浮かんでいたのだろう。地獄絵だ。この絵を構成する、入りくんだ複数の領域と登場人物をわかりやすく提示するために、小説の前半部はある。『バカドリル』と同じだ。マンガを描き、電気グルーヴやゆらゆら帝国のミュージック・ビデオを手がける著者ならではの、見事な手法である。
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