唐突と思われるかもしれないが、読みながら宮沢賢治の『春と修羅』を思い出していた。『春と修羅』は青春期のはなはだしい動揺と信仰(賢治は熱心な日蓮宗の信者だった)との軋轢で引き裂かれた魂、その内面の修羅の叫びを、豊かな自然との官能を通して描ききった作品だが、その中心となるのは若くして亡くなった妹トシへの激しい思慕である。賢治とトシの間に近親相姦的な関係があったのではないかという説がささやかれ、それを検証する研究本も出ているけれど、重要なのは、ひとりの人間がもつ潜在的な欲望や営みを普遍的なレベルで捉えようとする視点だろう。『春と修羅』の序文にあるように、“わたくしといふ現象は”“風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら”灯りつづける“ひとつの青い照明”であり、“すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるもの”、“すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべて”なのである。
先にも引用したように、『いのちの姿』で宮本輝は、小説は“私という人間のなかからしか出てこない”“心のなかにある風景や自然や人間のさまざまな営みを、愛情をこめて小説として書こう”と決意した。それは宮本の“心のなかにある風景や自然や人間のさまざまな営み”がそのまま他者(読者)の心のなかにあるものをうつしとることになるからである。読者は宮本輝の小説を読み、そこにあたかも自らの原風景を見るかのような思いにかられる。小説で描かれる世界や関係にほど遠い環境にありながらも、なにかとても近しく、わがことのような思いにかられる。それは、宮本輝の筆が、吉野せいの渾身の鍬のように、読む者の心のなかの何物かをくつがえしてくれるからである。もっというなら、ときに背徳じみたことも登場人物に堂々といわせて、読者の価値観をゆさぶるのだ。
たとえば、美花が呉服屋の社長の川村に愛人とどんなことをしているのかと聞く場面がある。川村は“人には言えん恥しい浅ましいことや”といい、そのような行為がときおりなければ、自分は自分の奇妙な苛立ちを鎮めることはできないと言い、こう付け加える。“人間だけが隠し持ってる快楽への衝動は、科学でも哲学でも解明できん。しかし、その衝動を燃料にして、そこから聖なる何物かを生みだすのが人間という生き物ではないのか。俺はそんな気がする”
人には言えない恥ずかしい行為。でも、それがなければ内面の苛立ちを鎮めることはできないし、隠し持つ快楽への衝動を燃料にして“聖なる何物かを生みだすのが人間という生き物”なのではないかという言葉が胸に響く。美花もその言葉をうけて、“世間の規範から外れた秘密の悦楽を薪にして、思いもよらなかった聖なる火を創造できる”のではないかと考える。では“聖なる火”とは何か。聖なるものだから、“他人のためになり、他人を歓ばせ、他人の幸福に寄与できるもの”であるはずだと思いめぐらす。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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