「なんだこれ?」――その文章を読んで、多くの人が、そんな感想を持つのではないだろうか。およそ人に読んでもらうことを前提としていない、失格と言わざるを得ない悪文の羅列がそこにはある。学校で評価を受けるなら確実に落第点である。一度でも判決文に目を通した者は、裁判官とは文章を書く能力が決定的に欠落した人種ではないか、と思うに違いない。
そんな裁判官の世界で育ちながら、独特の文章力を有するのが井上である。この文章力という意味は、なにも作家的な美しい文章をいうのではない。井上は難解な事柄を平易にかみ砕き、人に理解できるようわかりやすく説明できる能力を持った稀有な裁判官だったのである。
先の現役裁判官時代の『司法のしゃべりすぎ』をはじめ、その後の著作も、難しい法律用語でもぽんぽんと頭の中に入ってくる内容となっている。元裁判官の手になる著作は世に数多く存在するが、「人に読まれるもの」に値する、読む者に「優しい」著作は井上のもの以外、あまり目にしたことがない。
本書『裁判官が見た光市母子殺害事件――天網恢恢(てんもうかいかい) 疎(そ)にして逃(のが)さず』は、その井上が法律家としての専門知識と優れた文章能力を駆使して、全国民が注目した光市母子殺害裁判を独特の視点から解説し、論評したものである。
私は、平成二十年七月、『なぜ君は絶望と闘えたのか――本村洋の3300日』(新潮社)という作品を発表した。これまで報道されていなかった遺族・本村洋さんの九年間にわたる絶望の中での闘いと、それを支えた毅然とした周囲の人々の姿を描いたものである。題名からもわかるように、これは法律論ではなく、人間のあるべき姿と情念を主題としたノンフィクションだ。そこであまり触れることができなかった法律的な問題点の指摘が、本書には満載されている。裁判官であったからこその独特の視点に、「目から鱗(うろこ)」の読者は少なくあるまい。
たとえば、個別の事情に踏み入ることなく、相場主義に陥った日本の官僚裁判官がなぜ被害者の立場を軽視し、逆に被告人の量刑が軽くなるのか、その理由の分析が興味深い。
井上によれば、実際の刑事事件では、一審判決で有罪判決が出た時、控訴するのは、ほとんどが被告人の側なのだそうである。検察官が控訴するのはよほどの場合に限られる。
ところが、これが大きな問題となる。公務員である裁判官には、当然「人事評価」があり、〈裁判官の仕事をして一年間多くの判決をしたが、控訴はゼロだとなると、あの裁判官の裁判には当事者がみな納得しているからと良い評価〉になるのだそうだ。
それに対して、逆に全部控訴されたとなると、裁判の当事者は納得していない、すなわち〈問題のある裁判をやっているのではないか〉と、疑われる。そこで裁判官たちは考える。控訴は被告人からが多いので、控訴されないようにするには、〈被告人に甘く判決すればいい〉ということだ。たとえば、〈ぎりぎり実刑かどうかというような場合は、なるべく実刑を避けて執行猶予にする。そのようにして刑がどんどん軽くなって、温情判決ばかりになってしまう。裏を返すと、刑をもっと重くしてくれと真剣に涙を流している被害者の立場は影が薄くなってくる〉というのである。
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