これは、本書の中で井上が当たりまえのごとく記述していることの一部分に過ぎない。だが、それはこれまで誰も口にしたことのなかった裁判官内部の“内幕”暴露である。
被害者が軽視され、温情判決が多い理由を、井上は「裁判官の人事評価」の面からあっさりと説明してのけたのだ。部外者には気がつきにくい、驚くべき指摘というほかない。
そして、井上はこの光市裁判の旧一審、旧二審は、これまでの死刑事件における相場(被害者の数)から言って、最初から「無期懲役」に決まっており、つまり〈結論ありき〉であったことを、はっきり指摘している。裁判官の多くは、あとから〈適当に世間が納得する理由をつければいい〉という考え方をする人たちなのである。元裁判官なればこその率直な解説に、読者は時に溜息をつき、また、時に膝を打つことになろう。
さらに、少年事件の「死刑か無期か」のふるい分けを決める基準として使われてきた「永山基準」に対する考察もおもしろい。裁判機関である裁判所は、自ら裁判の基準を作る「権限」はなく、その上でできたものは〈違法〉であり、そもそも永山基準とは、〈過去の最高裁判決の中で言われた抽象的な一般論〉に過ぎず、後々の裁判で〈基準となること自体がおかしい〉というのである。
永山基準こそ少年事件における死刑か無期かを決める最重要なものであると信じていた法曹関係者は、独特の井上理論に面食らうだろう。
さらには、差し戻し控訴審で弁護団によって主張された母胎回帰、復活の儀式、償いのリボンなどのストーリーについて、〈社会常識的に受け入れる余地はありません〉と、「弁護権の濫用」の可能性さえ井上は指摘する。〈弁護権といっても無制限〉ではなく、弁護団は〈自ら墓穴を掘ってしまった〉という結論に、溜飲を下げる読者も多いのではないだろうか。
井上は一貫して、〈相場主義、前例尊重主義は、「法律に基づく裁判」という憲法上の大原則に違反〉し、これまでの前例だけを調べて〈一件落着。そういう安易な裁判〉ではいけないという立場をとっている。だからこそ、光市裁判が辿り着いた死刑判決を評価しているのである。
井上の筆によって判決文の行間から浮かび上がってきたものは数知れない。裁判員制度がスタートする直前だからこそ、われわれは、本書を通じて裁判官の実態、そして裁判そのものを知るべきだと、つくづく感じるのである。 (文中敬称略)
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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