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第二回

第二回

島田 雅彦

一代記のタイトルは『好色一代女トゥデイ』

4章 スーツケースに収められた人生

 眠れないまま迎えたある朝、七海は乾き目をしょぼつかせながら、覚悟を決めた。 相手は死者なのだから、ストーカー被害を訴えることもできない。逃げても無駄だ。七海が書くことで、千春が成仏し、七海の病が癒えるのなら、そうするよりほかにない。 さる文豪曰く。

 書くのではない。書かされるのだ。

 文豪は「筆を執れ」という死者の命令に従っているだけなのだそうだ。

 七海はその日のうちに会社に辞表を出した。上司は「自分探しか」と訊ねた。「いいえ、他人探しです」と七海は答えた。百人に五人が失業中というご時世に会社を辞めるのは、台風のさなかにピクニックに行くようなものだが、文豪はこうもいっている。

 楽をした分だけ堕落する。

「まあ、頑張んなさい」とやる気を削ぐ上司の声に送り出され、七海は会社を去った。失業保険は三カ月分しかなく、その後は時給千円未満のアルバイトと預金を切り崩して暮らし、いよいよ飢え死にの危機が迫ったら、アパートを引き払い、実家に帰る。そんな生活設計をしたうえで、自分の決心を伝えに、三たび谷本ヘレンを訪ねた。

 彼女は助手に「納戸から例のもの、持ってきて」と伝えた。助手は年季の入った小ぶりのスーツケースを運んできて、七海の目の前に置いた。

――この中にあなたの未来が詰まっています。

 例によって、谷本ヘレンは意味深なコトバを囁き、七海を煙に巻こうとする。七海もベタに「何ですか、これ?」と訊ねる。

――『好色一代女トゥデイ』の資料よ。日記とか手紙とか思い出の品とか千春さんの過去が一式入っている。

――どうして、それが先生のところにあるんですか?

――千春さんには私が家出してきた時に世話になったのよ。

 谷本ヘレンの話をまとめると、こうだ。

 身寄りのなかった白草千春には葬式を出してくれる遺族もいなかった。無縁仏として葬るのは気の毒なので、ヘレンが骨を焼くおカネを払った。その見返りというわけではないけれども、千春の遺品はヘレンが引き取ることになった。そこに、千春の霊に見込まれた七海が現れた。

 ヘレンが熱心に千春と関わるよう誘導したのは、そういう背景があったのだ。何だか、はめられた気がしないでもなかった。七海が会社を辞めたと聞いて、ヘレンも多少は負い目を感じたようで、千春の生涯を原稿にまとめたら、一枚千円の原稿料を払うから、と前金で五万円くれた。

 そして、スーツケースを自宅に持ち帰り、いざ開こうとしたものの鍵がかかっていた。谷本ヘレンに電話し、鍵をもらうのを忘れたことを告げると、「鍵はなくしたので、こじ開けて」といわれた。他人の過去をこじ開けるのは気が引けたが、見えない千春の霊に許しを請い、ドライバーを差し込み、シリンダーロックを壊した。思ったより手間がかかり、一時間の格闘の末にようやく左右のロックが解除された。かかった手間の分だけ緊張が高まり、禁断の書物の扉を開く気分でケースを開いた。

 けれども、光り物もなければ、目に綾なす物もない。何もかもが色褪せていた。

 いずれは返却するものだから、中身のリストを作っておこうと、ケースに収められた物品の種類と数を確かめた。

白草蔵人
 千春の父で日本画家。娘を溺愛するが、ある日突然失踪する。
「お前の将来が心配で、夜も眠れない。決して、自分を安売りしちゃいけないよ」
絵・ヤマザキマリ

 布装の日記帳が十三冊。革装の手帳が八冊。大学ノートが八冊。差出人別に束ねられた封書が三十束。記念写真のアルバムが六冊。コンサートのプログラムや美術展の招待券の半券や遊覧船の切符、温泉宿のパンフレットや往年のアイドルのブロマイドなどが貼られたスクラップ帳が三冊。空の香水の瓶三つ。アクセサリーが入った巾着袋が二つ。何が入っているのかわからない小箱が二十個。

 それらを狭いアパートの床に並べると、七海はしばらく放心していた。いつもノートや日記帳を抱いて、寝ていたに違いない。彼女の手垢や涙や髪の毛も付いているだろう。

 そこはかとなく、他人の寝床のようなニオイが漂ってきた。

 女の一生なんてこんな小ぶりなスーツケースに収まる程度のものか、と思った。それらは千春なりのささやかな幸せの証なのかもしれないが、彼女の人生を羨やむ人なんてたぶんいない。あまりまじまじとその遺品を見つめていると、こっちまで惨めな気分になってくる。

 ただ忘れられてゆくだけの千春を七海が記憶にとどめてやりさえすれば、きっと千春も成仏してくれ、七海にも安眠が戻ってくる。そう信じて、一番古い日記帳から手に取った。最初の日付は一九七〇年七月一日になっていた。七海が生まれる十年以上も昔の話である。

傾国子女

島田雅彦・著

定価:1680円(税込) 発売日:2013年1月11日

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