『第三の男』に写った、ウィーンの夜の石畳。観覧車。『禁じられた遊び』の切ないメロディーと、フランスの農家や墓地。戦争。『チャップリンの独裁者』ラストの、壮絶な演説。いずれも名作というだけでなく、戦後の日本人が身近に触れることのできた「欧米」そのものだった。
これらを日本にもたらしたのが、川喜多長政・かしこ夫妻だ。長政は明治三十六年(一九〇三年)生まれ。ドイツに留学した経験から、国際交流の重要性を痛感し、昭和三年(一九二八年)に「東和商事」を設立してヨーロッパ映画を日本に輸入する仕事を始めた。そして翌年、タイピスト兼社長秘書として入社し、同年の秋に妻となったのが、かしこだった。
かしこは明治四十一年生まれ、横浜フェリス女学院研究科を卒業。結婚後の昭和七年に、長政の欧州出張に同行して、地味な作品だった『制服の処女』の買い付けを夫に助言。それが日本で大ヒットしたことから、作品選定も経営も、常に夫婦で協力することになる。
戦争中は長政が日中合弁の映画会社を運営し、かしこも娘を伴って中国へ赴き、敗戦時は苦労して引き揚げたが、昭和二十六年に改めて「東和映画株式会社」(後の東宝東和)を設立し、多くの名作を日本に配給した。
さらに昭和三十五年にアンドレ・マルローが来日し、日仏双方の古典映画の回顧展が申し出されたのをきっかけに、夫妻は日本映画の収集・保存、そして海外への紹介にも力を注ぐようになる。そのため「川喜多記念映画文化財団」を設立し、「東京国立近代美術館フィルムセンター」や「エキプ・ド・シネマ」の創立にも関わった。黒澤明監督の『羅生門』がヴェネチア映画祭で紹介される際にも尽力している。ベルリン、カンヌ、ヴェネチアなど国際映画祭の審査員を多数務め、勲三等瑞宝章、イタリアのカバリエレ勲章、フランスの文芸勲章を受章し、平成五年(一九九三年)に亡くなった後は正五位に叙せられて功績を讃えられている。
写真は昭和四十年、大宅壮一との対談での一枚。気さくで庶民的な風貌に、五十七歳相応の落ち着きがある。華やかで虚栄に満ちた映画界とは正反対なそのイメージこそが、「マダム・カワキタ」として世界中の映画人に親しまれたゆえんかも知れない。