戦後に戦犯として裁かれた松岡や東條の、こうした一面に目を伏せてきた戦後の歴史観の存在は否めない。陸軍軍人の戦争責任とその過失を追及する中で、「オトポール事件」も語られることはなかった。
しかし、歴史とは是々非々で語って然るべきものであろう。終戦から六十余年が経った今、戦争の記憶の風化がいよいよ深刻化しているが、同時に、ようやく偏向のない、冷静な議論が可能になってきたという側面もあるのではないか。
本書では歴史の影に埋没していた「オトポール事件」に関し、多くの資料と証言から、その実態を浮かび上がらせることに多くの頁を費やした。イスラエル取材にも一定の成果があった。
ところが、樋口季一郎の生涯において語るべき事柄というのは「オトポール事件」だけに留まらない。
一九四三年(昭和十八年)五月、北方軍司令官となっていた彼は、札幌・月寒の軍司令部にいた。彼の指揮下にあるアッツ島には、無数の米軍上陸部隊が押し寄せていた。彼は現地軍に対し、一度は「増援部隊」を送ることを伝えた。しかしその後、大本営の決定により、「増援部隊の派遣は中止」となった。樋口は涙を流しながら、その命令を現地に伝えたという。
アッツ島は玉砕。かつて満州の地において、多くのユダヤ人を救った男は、その五年後、日本において、自らの部下の命を助けることができなかったと言える。「オトポール事件の立役者」は、「日本初の玉砕戦の指揮官」という汚名をかぶることとなった。
樋口の体躯はこの頃より、みるみる痩せ細ったという。 「泥多仏大(でいたぶつだい)」という古い言葉がある。「泥多(どろおお)ければ仏大(ほとけだい)なり」と読む。樋口の生涯を追う中で、私の中に常にあった言葉だ。意味は「仏像を造る際、泥の量が多ければ多いほど、大きな仏ができあがる」といったところである。
戦時下において、指揮官として様々な決断を下していくことは、多くの泥を被る作業でもあった。
樋口の人生には泥があった。今回の取材とは、その泥の手触りを探ることであった。
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