- 2013.03.14
- 書評
チェス界のモーツァルト
文:羽生 善治 (棋士)
『完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯』 (フランク・ブレイディー 著 羽生善治 解説 佐藤耕士 訳)
ジャンル :
#ノンフィクション
もし、「ボビー・フィッシャーはどんな人?」と聞かれたら、「チェスの世界のモーツァルト」と私は答えます。モーツァルトとの共通点は3つあります。
1 誰もが認める“天才”であること
2 その天才性を簡単に知ることが出来ること(音楽を深く勉強しなくてもモーツァルトの素晴らしさを理解できるように、フィッシャーのチェスもルールが解ればその力強い指しまわしに魅了されるはずです)
3 それとは別の部分に大きなギャップがあること
モーツァルトが残した様々な手紙の内容は、お世辞にも上品とは言えません。あの音楽を作った人が何故、このような事を書くのか。フィッシャーも同様で、あの極めて芸術性の高いチェスを指す人が何故、非常識な偏った信条を持つのか。
著者は理解の難しいこの人物に対して、多面的に慎重に、そして節度を持ってペンを進めています。
個人的には、世界チャンピオンになった後にずっと姿を消していた「空白の20年間」を初めて明かした記述がとても興味深かったです。当時のフィッシャーが貧困を極めたといううわさは知っていましたが、まさかあそこまでだったとは……。フィッシャー、そして本書への理解を深めるために、いくつか補足してみます。
例えば、1956年に行われた「世紀の一戦」について。チェスではクイーンがとても強い駒で、それを無条件に捨てるのは負けに等しいです。にもかかわらず、13歳のフィッシャーは完璧なコンビネーションを読み切って強豪のバーンを負かしました。今でこそ10代前半のグランドマスターは珍しくありませんが、その強さ、内容の衝撃度ははかりしれないでしょう。
冷戦下、アメリカを代表してフィッシャーがソ連勢と戦うときに大変だったのは、圧倒的なチーム力の差を個人で埋めなければならなかったことです。チェスの大会は毎日連続して行われるので肉体的なタフさも求められます。同国人であったり、個人的に親しければ早い段階で引き分けにして体力を温存するケースもあります。そういう意味でもフィッシャーは不利な環境で戦わざるをえなかったとも言えます。
また、国家としてチェス棋士を保護し育成をしていたソ連に対し、当時のアメリカはそこまでサポート出来る環境ではありませんでした。そんな中で世界選手権を勝ち進んでいったのですから、驚嘆すべきだと思います。
アメリカ人初の世界王者
1971年、世界王者への挑戦権を得るためのシリーズでは、タイマノフ、ラーセンという当時のトッププレイヤーに完封勝ちをしています。
チェスのトップGM(グランドマスター)同士の対戦は、白番(先手番)では勝ちを目指し、黒番(後手番)では引き分けを目指すのが多いです。もし、白番が引き分けを目指した時に黒番で勝つのは限りなく難しく、白番が勝ちに来た時に黒番の勝つチャンスが生まれるのです。1対1のマッチですから不利な方が積極的に勝ちに行かなければならない訳ですが、それを差し引いても6対0は信じられません。今後はこのような記録は作られることはないでしょう。
1972年にソ連のボリス・スパスキーをアイスランドのレイキャビクで破って世界チャンピオンになったフィッシャーは一躍、時代の寵児となります。
余談になりますが、じつは私は、スパスキーとフランスで会った事があります。気さくで冗談が好きな人でした。余興で対局をしていたスパスキーとタイマノフのブリッツ(早指し)を側で見ていたのですが、その瞬間的な切れ味の良さには深い感銘を覚えたものです。
スパスキーを倒したあと、フィッシャー初の防衛戦となるはずだった1975年のアナトリー・カルポフとのマッチは、条件面で折り合いがつかず行われる事はありませんでした。しかし、フィッシャーが提案していたどちらかが10勝するまでマッチを続けるというのは恐ろしいルールで、もし実現していたら何10局かかるか解りません。
フィッシャーが望んでいたのは真のチャンピオンを決める理想的なルールであった訳ですが、同時に、運営する、設営する側にとっては現実的には困難なオファーであった訳です。
適当に妥協してうまくやって行けば良いのにと多くの人は思うでしょうが、それをしないのがフィッシャーのフィッシャーたるゆえんなのだと思います。
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