やたら子供に戻りたくて仕方がないこの数年である。働きたくないからなのか。いや、それも理由としては大きいのだけれども、子供の時の金銭的不自由をもう一度体験するぐらいなら働く、と思いなおす。子供の頃は自分も含めてみんな純粋でよかった、とかいう美化があるわけでもない。小学生の頃のわたしの周囲は、紛れもなく、大人になった今の十倍ぐらいの政治的駆け引きと愛憎に満ち溢れていた。あんな人間関係の中には、もう二度と戻りたいとは思わない。
ならば自分は、子供の頃の何を取り戻したいのだろうか。それは、子供の目であり、体であり、感じ方なのだと思う。大人になってから、自分が五歳まで住んでいた家や、最寄りにしていた駅を見に行ったことがあった。五歳の頃は、家はとても大きくて、駅前は大変な都会だったのに、今それらを眺めると、不思議なほど小さく、大したことなく見える。そのことには、寂しい、という当たり前の感覚も伴ってはいるのだが、もっと別の、自分が確かに持っていた三つめの目のようなものが失われてしまったかのような喪失感がある。自分はもっといろいろなものが見えていたのに、今は見えなくなってしまった、という。
『円卓』の稀有さは、端的に言って、それらの失われた感覚を、読み手の中に痛々しいほどの鮮やかさでよみがえらせてくれる点にある。それこそ、円卓の赤色の鮮やかさで。他にもさまざまな卓越した要素があるので、その一つに限定してしまうことはものすごく乱暴なのだが、本当にその感覚は、優れた書き手が強い意思と技術を以て描くことでしか再現不可能なもので、本書を手に取っている皆さんは、それを目の当たりにするんだということになる。
まずは、登場人物たちのとんでもない個性に心を奪われる。本書には、何かが起こるようで起こらないことと、何かが起こらないようで起こるという状況を絶えず行き来しているような揺らぎがあるのだが、このものすごい個性たちの傍若無人な往来の前では、「出来事」とかはどうでもいいことになってしまう。何か特別なことを体験したからこんな人間になるんです、というもっともらしいなりゆきは抜きにして、人間は始めから全員個性的である、というごく当たり前の、決して動かせない真実が、彼らを眺めているうちに頭をもたげる。ただ、こんなに異常な個性がひとところに集まることもそんなには考えられないので、よほど装置の配置に心を砕いた小説なんだよなあ、と考え始めて、いや、待てよ、と立ち止まる。子供の頃の自分には確かに、自分の世界の人々はこんなふうにはっきりと見えていたのではないか。人々や物事の個性を、個性のまま受け取って咀嚼し、それらを世界を語るしるしにまで膨張させてしまう。これは子供のビジョンの賜物ではないのか。子供は、現実にある世界を眺めながら、別の世界を幻視しているようである。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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