2016.08.25 書評

西川作品の魔法

文: 柴田 元幸 (翻訳家)

『永い言い訳』 (西川美和 著)

『永い言い訳』 (西川美和 著)

「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」とはトルストイ『アンナ・カレーニナ』のあまりにも有名な書き出しだが(望月哲男訳、光文社古典新訳文庫)、西川美和はまさに、映画においても小説においても、さまざまな「不幸な家族」の「それぞれの不幸の形」を描いてきた。

 ――と、ひとまず言いきってしまったものの、ちょっと違うな、と次の瞬間に思いあたる。「不幸」という言い方は、「幸福」という「正しさ」からの逸脱、「正しさ」の劣化を示唆する。在るべき正常な事態は幸福であって、不幸は解決・除去すべき異常な事態だという前提があるように感じられる。西川美和はそのような前提に立たない。彼女はただ、こういう家族がいます、こういう家族がいます、と、不幸とも幸福ともレッテルを貼らずに一つひとつの家族の刻々変わる姿を提示する。自分を正しさの側に置いて、したり顔で正しくない者を裁くのではない。だから厳しくても、独善はない。悪意なしの厳しさが、感傷抜きの優しさと交叉する地点において西川作品は作られる。

「正しい家族」像がないという前提とあいまって、「正しい物語」というものもない、という姿勢も西川作品を貫いている。西川美和の第二長篇にあたるこの『永い言い訳』でも、また第一長篇『ゆれる』でも、物語は複数の視点が入れ替わり立ち替わり現われる形で語られる。芥川龍之介の短篇「藪の中」のように、語り手たちの言うことがたがいにまったく食い違っていて、結局真実は藪の中なり、と読者を放り出すのでは決してないが、さりとて、複数の語りがパズルのピースのようにピタッと合わさって最後は全体像がきれいに出来上がる、ということでもない。どの語りも、いったんは全面的に信用して耳を傾けねばならないが、最終的にはいかなる語りも「ここに作品の真実がある」と特権化することはできない。『ゆれる』の各章が「早川猛のかたり」「川端智恵子のかたり」……と題され「~の語り」となっていないのは、かたりは語りでも騙りでもありうるからだ(そもそも「ゆれる」のは、ヒロインが墜落する吊り橋だけではない。真実そのものがゆれるのである)。

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永い言い訳
西川美和・著

定価:本体650円+税 発売日:2016年08月04日

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