〈今に添って生きている〉父を尊敬する広海は、隣の市の進学校に通い、成績も優秀。理解があるふりをして何かと干渉してくる母親とも、日馬開発のドラ息子・達哉(たつや)とも、自分のように本や音楽を必要としない幼なじみの門音(かどね)や市村(いちむら)とも、表面的にはうまく付き合っている。村に不満がないわけではないが、大学生になれば家を出られるし、由貴美があらわれるまで広海の心は凪いでいたのである。
由貴美はフェスが終わっても東京に戻らない。一年前に母を亡くし、身寄りは誰もいないのに、廃屋のようになった家に閉じこもる。村民は芸能人を一目見ようと大騒ぎ。夏休み最終日、従兄から借りたバイクに乗って、山岳地帯にあるダム湖に出かけた広海は、由貴美と再会する。その日を境に、広海に見える世界は一変する。例えば、門音や市村と過ごす時間を以前より耐えがたいものに感じたり、母親にきつくあたったり。由貴美が生きている世界と比較して、自分の日常が、あらためてつまらないものに思えてしまうのだ。
〈フェスの夜とも、映画の役とも雰囲気が違う、五分袖の白いニットを着ていた。暗い湖の中で、湖水に映った白い影が揺れるように動く。唐突に、うちの村を飛ぶ蛍たちは、きっとここで生まれるのだろう、と思った。〉蛍の儚い光と由貴美の美しさが重なる場面が鮮やかだ。広海は由貴美と言葉をかわし、すっかりその魅力に囚(とら)われて、人目を忍んで会いに行くようになる。都会の生活に傷ついた年上の女性と田舎の少年の恋。よくある話だが、この後の展開は一筋縄ではいかない。
本書のもう一つの主役は、睦ッ代村そのものだからだ。都会の文化を受け入れ、〈今に添って生きている〉村。広海はフェスの他には何もないと侮っているが、東京から越してきた達哉や出戻ってきた由貴美の見方は異なる。例えば、由貴美に帰郷したわけを打ち明られた広海が〈こんな村に、そんな価値ある?〉と訊くと、〈自分は村の一部じゃないと思ってるんだ。『こんな村』って断言するってことは〉と指摘される。馬鹿にしていても、広海は村の一部に組み込まれているから、その特殊性がわからないのだ。一方、達哉は睦ッ代のイメージを尋ねられ〈空が青いのと、家ん中が暗いのの差がすげえ〉と評する。
人々がフェスを好きなのは、広海が語るように、それが単なる大型野外コンサートではないからだろう。自然の中であること、そこに漂う非日常の祭りの感覚が好きなのだ。ところが、非日常の祭りが行われるのは、村人にとっては日常の場所だ。青い空から目線を移し、家の中を覗いてみると、暗闇が広がっていて戦慄する。ある事件があって、広海が〈何気なく自分の周りをくるんでいたもの〉に気づくシーンは恐ろしい。とはいえ、田舎の秘密を暴露することにこの小説の本意はない。日常の影が濃いからこそ、非日常の祭りは輝く。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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