ところで、いまや、「たけくらべ」を知らなくても、日本で暮らす者なら誰もが、五千円札の顔として樋口一葉を知っている。
しかし、一葉がお札になったときは、なんとも皮肉な気がしたものだった。一葉といえば、貧乏。二十四歳の若さで亡くなるまで、一葉の財布に入った金は、けっしてそこに留まることがなかった。それを知っている者にとっては、五千円札には不景気なイメージがつきまとう。
――わたしをいつまでも持っていられると思わないことね。それがお金ってものよ。
一葉女史がそう言っている気がして、五千円札が来ると慌てて崩したくなる。
「流転の魔女」は、一葉女史の金の苦労が乗り移ったかのような若い女性が主人公の物語である。彼女の名前は林杏(りんきょう)。中国から日本の大学に留学してきて、法律を学ぶ苦学生だ。
お昼は大学の食堂で、三百九十円のランチ「サバ定食と揚げ出し豆腐」を食べる。千円札を崩したくなくて、百二十円のミルクココアは我慢する。日本の物価は高い。中国の両親が苦労して仕送りしてくれるのがわかるから、林杏は極力切り詰めて生活している。
そんな彼女に、破格のバイト話が降ってくる。友達のお父さん、藤森弁護士の接見について行き、中国人容疑者のための通訳をするのだ。報酬は一万五千円。福沢諭吉と樋口一葉が一枚ずつ。時給九百円の居酒屋のバイトとは雲泥の差。
こうして林杏は、少し裕福になるものの、偽造カード、スキミング犯罪一味の世界に鼻を突っ込むことにもなり、怪しく人を惑わす金の恐ろしさを垣間見る。シロだと言い張る王連仲はどうもクロらしいし、王連仲の姉だと名乗って藤森先生を雇った田口という中国人もどうやら一味らしい。犯罪者たちは藤森先生が中国語を解さないのをいいことに、林杏に好き勝手な指示を出す。
一方、この物語のもう一方の主人公は、一枚の五千円札である。
印刷機からすべり出て断裁され、誰かの財布に入ったのも束の間、流転の人生は始まって、藤森弁護士の鶯色の封筒から林杏のからっぽの財布へと宿を移した。記番号「794050」は林杏に「おせん」と名づけられ、新たなる旅へと送り出される。おそらく彼女は、二度と「おせん」と会えないだろう。だって「おせん」ときたら、愛人を囲う中国の要人の手に渡って、あっという間に海を越えてしまうのである。
ここから先の「おせん」の流転は、たいへんなものだ。ちょっとやそっとじゃ見られない世界の裏側を、彼女は覗き見る。
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