楊逸さんと会うのはいつも楽しい。
じつは何度か、楊逸さんと私、そして梯(かけはし)久美子さんというメンバーで、共通の編集者さんといっしょにご飯を食べたりお茶会をしたりしたことがある。仕事でもなんでもなく、気が合いそうだからという理由で集まったのだけれど、これはほんとに気楽な会で、いつも周囲には迷惑なほどの大爆笑の連続になる。一度、楊逸さんの素敵な高層マンションの一室にご招待を受けたこともあって、このときなどは人目を憚ることもないので半日笑い倒した。だいたい楊逸さんが話していて、おっとりした梯さんと私は「ほぉー、ほぉー」と聞き役に回っていることが多い。しかし、梯さんはさすがにノンフィクション作家だけあって聞き出し方も突っ込み方もうまいので、二人の話は掛け合い漫才のようだ。お二人は、ノンフィクション賞の選考委員をいっしょにしたのだか、しているのだかで仲がいい。なぜ私がそこに混ぜてもらえたのか理由は忘れてしまったけれども、お声がかかればまた混じりたいものである。
その陽気な会合で、楊さんが唐突にお金の話を始めたことがあった。お金の話というよりも、二一世紀をサバイバルする方法について滔々と語りだしたのだ。お金関係に疎い私はもう、うろ覚えでしかないのだが、たしかお金はシンガポールだかどこかの銀行に移して、住むのはフランスのカンヌだったか――。その、外国に口座を開くときの具体的方法を、微に入り細をうがって語ってくれたのだった。
「わたし、けっこう本気で調べたの」
と、前置きして。
聞きながら、この人はほんとうにコスモポリタンなのだなあ、島国ニッポンから出ることなど考えたこともない私のようなのとは、どこか本質的に違うのだな、そうじゃなきゃ、外国語である日本語をあそこまで自家薬籠中のものにして小説を書くなんてことはできないよなあと、私はやたらと感心してしまった。そのころ「流転の魔女」はすでに執筆後だったように記憶している。この小説を書いたから、ああした感覚が根づいたのか、あるいはもともとお金に対する感覚が鋭く研ぎ澄まされているからこの小説が書けたのか。おそらく両方なのだろう。
「流転の魔女」は、傑作「お金」小説だ。すぐれたコメディであるとともに、辛辣な現代批評でもある。横光利一から始まって(!)、日本文学もお金=経済を描こうと四苦八苦してきた歴史があるけれども、こんなにおもしろく、けれども強烈に恐ろしい「お金」小説が書かれたのは、これが初めてじゃないだろうか。まあ、私は「お金」小説に詳しいわけではまったくないのだけれども。