次の日の朝10時頃。我々は市内旧街道沿いにある明珍家の工房前に立った。案内役の岡本さんは自転車でやって来られた。
(ああ、ここは覚えがある)
工房の向いにある神社や、ふた股に分れた鄙(ひなび)た道筋は、今から30年前に来た時のままだった。実は学生時代、関西を1人で自転車旅行していた頃、この工房前の細い道を通ったことがある。当時、東京を出る時に友人から、
「姫路に行くなら、明珍火箸を買って来て」
と頼まれたのである。ところが町で尋ねてみるとどれも結構な値段で、貧乏旅行の身には手が出ない。せめて造っているところだけでも目にしておこうとこのあたりをうろうろした。そういう思い出がある。
明珍家第52代当主、明珍宗理(むねみち)氏は気さくな人柄と聞いていたが、はたしてそうで、
「こちらへどうぞ」
と、すぐに鍛冶工房へ我々を導いて下さった。まずは名高い明珍火箸の製作過程を見せていただく。
炉は思ったより小さい。宗理氏の御子息、三男の敬三氏が、金床(かなとこ)の上で真っ赤(約1500度)に赤められた鉄を少しずつ回転させながら角を取っていく。箸の先端を鋭くするのは、金床の角に近いところへ置いて鎚を細かく動かすからで、
「1日に打つ回数は2万回ほどです」
とおっしゃる。炉に用いる小割りのコークスは、裏にある工場から分けてもらうそうで、「夏は、この中は50度を越えます。楽ではありません」
スティービー・ワンダーや冨田勲が絶賛した火箸の澄んだ音色は、そうした苦業の末に生まれるのである。もともと明珍という家は、平安期、近衛天皇の勅命を受け、京九条の増田宗介という鍛冶師が武具を献上して、
「音響朗々、光“明”白にして玉の如く、類稀(るいき)なる“珍”器なり」
とお褒めの言葉を賜わり、その姓を名乗ったという。姫路明珍家は、江戸期、上州厩橋(うまやばし)からこの地に入り、甲冑の需要減少とともに火箸や鉄置物を作り現在に至っている。作業を終え、工房から応接室に戻ると、
「こういうものも今は作っています」
宗理氏は不思議な金属製品を取り出した。掌に入る小さな「おりん」である。なんと、チタンで出来ているという。その涼やかな音色に一同息を飲んだ。
甲冑鍛冶の、技の奥深さを、最後の最後になって思い知らされた。憎いほどの演出だった。
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