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貫井徳郎の果敢な挑戦

貫井徳郎の果敢な挑戦

文:内田 俊明 (書店員・八重洲ブックセンター勤務)

『新月譚』 (貫井徳郎 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

 変貌を遂げる前の、かつての自分を知ってくれている、という信頼感から、和子は木之内への依存度を増していく。と同時に、嫉妬や欲望の対象になりやすいという、美貌と才能を併せ持つがゆえの不利益が新たに和子を襲う。平凡なOLだった和子は、作家として世に出ていくことで、普通に生きている人間なら経験しないような多様な形で、他人が自分に向けてくる負の重圧を受けるのだ。アンバランスな状態で生きていかなければならない和子に対し、読んでいて畏怖がこみあげてくる。

 こういうスリリングな展開にもかかわらず、和子の視点から冷徹に淡々と一人称で語られることで、この物語はかえって凄絶の度合いを増しているように感じられる。貫井徳郎の作品は、複数の人物がそれぞれの視点で物語を織りなしていくものが多いが、一つの視点で一人の女を徹底的に、濃密に描きだした本作は、貫井徳郎という作家の力量の確かさが、もっともよく判る作品だと思う。

 和子の危ういアンバランスさは、木之内の奔放さによってさらに混迷していく。和子は木之内との関係に絶望して作家となったわけだが、やがて木之内の夫婦関係に変化が起こり、和子の前に光明が差す。しかしこれも長続きしないのだ。木之内の不実さのおかげで、またも深い絶望に直面した和子は、暗くよどんだ情念を原稿に注ぎこんで、傑作『薄明の彼方』を書きあげる。

 それにしてもこの木之内という男、読めば読むほどとんでもない奴で、同性ながらその不実ぶりにはまったく同感できない。だが和子の一人称で語られる物語であるがゆえに、和子から見た好ましい木之内像が描かれるので、不思議と不快な感じはしない。一方で木之内の考えは全く見えないので、和子の視点で描かれる木之内に対しては「本当にこれがこの男の本性なのか?」という疑念を、読んでいる間はずっと感じつづけていた。実はこの木之内に対する疑念が、結末近くの怒濤のような展開と、意外なラストのインパクトにつながっているのだ。ここはとても興奮した。本作はミステリー作家である貫井徳郎にしてはめずらしく、ほぼノンミステリーと言っていい作品なのだが、この一人称であるがゆえのラストのインパクトに、叙述ミステリーの名手である著者の巧さが生かされている。

 そして特筆すべき、余韻嫋嫋(じょうじょう)たるフィナーレ。作中で和子は、作家・咲良怜花に対して、正体である後藤和子という存在を、目に見えない新月になぞらえた。最後に和子に訪れる、これまで何度も直面してきた絶望とはまったく次元の違う暗闇が、その新月の暗闇に重なる。かつて実際の死ではなく、別人になるという形で自らを殺した和子は、実は涅槃(ねはん)を生きていたのだ。その境地は、きわめて残酷でありながら、不思議な崇高さに満ちている。

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文春文庫
新月譚
貫井徳郎

定価:902円(税込)発売日:2015年06月10日

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