2月19日、第152回芥川賞直木賞贈呈式が行なわれました。 受賞の喜びを語る小野正嗣さんの挨拶を全文掲載します。
一九五一年四月十六日、サミュエル・ベケットは、親しい友人マニア・ペロンに宛てた手紙のなかで、こう書いています。
「春のにわか雨の合間に、泥をひっくり返して、ミミズを観察しています。観察といっても科学的な無関心さをまったく欠いたものです。まっぷたつに引きちぎられても、すぐに新しい頭かしっぽが生えてくるのはわかってはいるのですが、ミミズたちをシャベルで傷つけないようにしています」
四十五歳になったばかりのベケットは、まだまったく無名の存在でした。『ゴドーを待ちながら』の初演は二年後です。あらゆる出版社に原稿を拒絶され続け、この手紙のほぼ一月前に小説『モロイ』がようやく刊行されたばかりでした。のたうつミミズに、ベケットは何を見ていたのでしょうか? 書けども書けども発表する機会にめぐまれない自分の姿でしょうか? 湿った泥から引きずり出され、外界に無防備にさらされたミミズに、ベケットは自分自身を重ね合わせているようにも読めます。
その一方でベケットは、ミミズに「再生」の力をたしかに見て取っています。引きちぎられても新しい頭やしっぽが生えてくるのです。
ちょうどこの頃、まさにベケット自身の「再生」あるいは「新生」も始まろうとしていました。『モロイ』は批評家たちに高く評価されます。大きな文学賞の候補になる可能性も生じますが、賞につきものの騒動に巻き込まれ、自分が公の場にさらけ出されるくらいなら候補を辞退したい――そうベケットは彼を「発見」してくれた編集者に手紙を送ります(それも、のちに妻となるスザンヌに手紙を代わりに書いてもらって)。そして以後、作品についての取材は一切受けないという姿勢を貫きます。
僕はベケットの作品が大好きですし、作家としての姿勢に心から憧れていますが、真似したくてもできません。ベケットを読めば読むほど、絶対に彼のようなものは書けないとわかります。意気沮喪させられますが、同時に強く「激励」されます。自分自身の場所を見つけろと尻を蹴っ飛ばされている感じがするからです。そして文学の世界は広大で自由なので、自分の場所は必ず見つかります。「天才の作品の周辺には、われわれが小さな光を入れておくための場所がある」とカフカも『日記』に書いています。「天才的なものは人をただ模倣に駆り立てるだけではない普遍的な激励だ」というのです。
すぐれた作品は、他者に「場所」を与えます。作り手にはもちろん、受け手にも場所を与えてくれます。素晴らしい小説や絵に出会うと、どうして感動するのでしょうか? 自分が受け入れられ、支えられている、と感じるからではないでしょうか。そこに、私たち一人一人のための「場所」が、「私のための場所」があると感じられるからではないでしょうか。作品は、受け取ってくれる私たちを必要とします。私たち一人一人を受け入れ、「あなたが必要だ、あなたの存在が大切だ」と訴えているのです。つまり作品は、それに触れる人が「生きること」を望みます。「あなたに生きてほしい」。だからこそ、素晴らしい作品に出会ったとき、私たちは「支えられ」、「励まされ」、「救われた」と感じるのです。
作品とは「与える」ものです。それがよくわかるフランス語の表現があります。絵画を見たり自分で何か作ったりするとき、Qu'est-ce que ça donne? と言います。ごく日常的な表現で、「どれどれどんな感じかな? うまく行っているのかな?」というニュアンスですが、直訳すれば、「それは何を与えているのか?」ということです。
与えるためには、おそらく多くを受け取っていなければなりません。そもそも小説を書くための「言葉」が他者から受け取ったものです。しかも言葉のなかにはその始まりから、様々なものが「与えられ」ています。赤ん坊が受け取る「言葉」には、赤ん坊を抱く母親的な存在が与える笑顔、乳、肌のぬくもりがつねに混じっています。言葉、乳、情動、ぬくもりが作る大きな循環のなかに赤ん坊は包まれています。人間の乳幼児にはみな、ある種、湿った土のなかにいるミミズのようなところがあるのかもしれません。