でも、本当に自分が社会のなかで、ある幸せや平和を享受したかったら、まずは「機嫌よくふるまうこと」が必須なんです。世界を変えるのではなくて、まずは現状の世界と和解する。怒っている人には心を開きにくいでしょう。機嫌のいい人こそ人を動かしていける。
機嫌が良くなったら、いろいろな社会の不備に不満ではなく、「あれ?」と興味を持つようになります。「なんでこんな下手なことをやっているのかな」「もっとこうしたほうがみんな楽になれるのに」と関心がもてる。つまり、変えたい物事が「他人目線」になるんですね。自分が主張する前に、この人はこんな点で困っているんだなと、視野が広がって他人が見えてきます。
さらにいえば、機嫌よく、現状の世界と和解できている人は、目の前の現実をありのままに認識しやすいんです。「何をいちばん初めにやるべきか」がわかる。たとえば、救急に誰かが運ばれてきたとき、まずはCTをとるべきか、先に止血すべきか……即座にプラクティカルな判断をしなくてはいけない。そんな喫緊の状況下で、現実をクールに受け入れて、さっと身体を動かしていくことができる。神戸震災後の内田先生のふるまいは、そのよい例でしょう。
本書では、さまざまな政治的問題から、コピーキャット型犯罪、霊的体験とのつきあい方までが扱われています。それらを論じるときの内田先生にはつねに、「明るいニュートラルさ」があります。怒りや不安や、恐怖といった身を固くするものから解放された状態――そんなニュートラルな構え、知的耐性とは、じつはご機嫌でいることから生まれてくるんです。内田先生自身、大変気分のいいお人柄で、会うといつもわくわくします。
これからは、不機嫌でないと権利主張ができないといった刷り込みは捨てて、「あの人は機嫌がいいから、言ってることも信用してみよう」と、見方を変えてみませんか?
明るいニュートラルという知性の強みは、「わけのわからないもの」に面した際にはっきりと表れます。僕は、霊的体験についての記述をいちばん面白く読みましたが、内田先生は「既存のカテゴリーにうまく収まらないもの」があってもいいじゃないかというスタンスです。宗教体験という「よくわからないもの」の宝庫を、様々な仮説の生成をうながす栄養豊かな培養基として捉えている。
科学は再現性が可能かを第一定義にしていますが、でも考えてもみてください。たとえばある芸術作品をみたときに、ある人は人生が変わるくらい感動して、でもある人にとってはそれがすごくグロいもので、二度とみたくないと思う。そんな感覚の大きなズレはよくある話です。
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