霊とは何かといったら、いわば一般の共通感覚のなかには起こり得ない、超個人的なというカッコ付の現実体験なんだと思います。映画を観て「あのシーンの車の車種は…」と言ったら誰とでも認識を共有できるけれども、霊的世界と言われるものはその共有の幅がきわめて狭い。ある意味、他との共有の幅が広いエリアをわれわれは現実と呼び、共有の幅が狭い固有の経験を霊的と呼んでいるのではないでしょうか。
だから、霊的体験と何でも結びつけるという向きも、それを頑なに否定する趣向も、どちらもちょっと知性が足りないと思います。自分の既知の体験や価値観に固執して、わからないものを拒絶している。そういうこともあるかもしれないな、という距離感を保つことが大切なんです。
霊的なものに、恐怖心やある種の先入観をもてば、かえってそれは幻視や錯覚を生むことになります。恐れをもたないで、それをよき体験だと思えたときにはじめて有益な経験として自身に同化されるわけです。だからこそ、ニュートラルな構えが必要なんだと思います。
さらにはカントの「先験性」ではないですが、「わけのわからないもの」を先験的な歴史感覚のなかで捉える――つまり今生起していることを、あたかも過去に繰り返されていることであるかのような感性で受け止めていくと、新たな知見がどんどん引き出されてきます。ある種、自前営業のアカシックレコードのような、つまり普遍的な情報網に自分がアクセスしたかのような知的生産が瞬間的に起こったりする。そんな知が本書ではダイナミックに展開されてもいます。
さて、抑圧的な現代社会において多くの人は“傷ついて”います。邪悪なものから受けた過去の外傷をどう乗り越えるか――「鎮め方」の知恵は本書のもうひとつの重要なテーマですが、僕は、トラウマにはあまり善悪の区別をつけていません。
トラウマを「傷」と訳すと痛いもの、嫌なものという意味になりますが、記憶のなかで未消化なまま残ってしまったものの刻印と捉えると、じつはそれは「聖痕」にもなり得るんです。その人の記憶のなかで解釈できない謎は、外傷ではなく、聖痕化できる可能性を秘めていると思います。
「じゃあどうしたらいいんですか?」という問いには、僕は「まず朝早起きしてください」と答えます。「なるべく、ちょっとでも毎日機嫌よくしてくださいね」と。あるいは「朝五分でいいから早く起きて深呼吸して、誰かのために五秒祈ることを十日間やってみませんか」と勧めてもいます。
もちろん症状に応じて様々な対応は必要ですが、まず隗より始めよ│精神的に一歩踏み出す基礎体力は、じつはこんなところから生まれてくるのです。
隗より始める日々のヒントに満ちたこの本もまた、そんな効用が大いに含まれていることでしょう。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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