子どもの偏食のようで、なんだか情けないのだが、「喰わず嫌い」ならぬ「読まず嫌い」の性癖というのが、わたしにはある。それも、書評家のくせをして、である。いったん苦手のツボに嵌(はま)り込んでしまうと、その作家の作品が視界に入るや、コソコソと敬遠したり、見て見ぬふりをしてしまうのだから始末が悪い。実は、あまり大きな声ではいえないのだが、長らく池井戸潤もそんな作家のひとりだった。
その原因をつらつら思い返してみるに、元銀行勤めというキャリアをフルに活かした、江戸川乱歩賞受賞のデビュー作『果つる底なき』の印象が相当に強かったようだ。これ一作で、経済音痴のわたしの中では、この作家イコール銀行を舞台にしたミステリ、という強い先入観がすっかり出来上がってしまった。
そんな思い込みが大きな間違いであることを知ったのは、つい最近のことなのだが、しかし現金なもので、偏食が治ってしまうと、途端にわたしは池井戸潤の金融ミステリのファンになった。
さて、そんなファンのひとりとして、池井戸潤の最近ののぼり調子は、なんとも頼もしい限りだ。今年になって上梓(じょうし)されたばかりの『最終退行』は、銀行を舞台に、リストラの憂き目にあわされた負け組の銀行員が、勝ち組であるエリートたちにリベンジを挑むという痛快な物語で、銀行のOBでなければ描けないであろうその内実の面白さを大いに堪能させてくれた。そして、さらにその前作の余韻醒めやらぬうちに登場したのが、この『株価暴落』である。
流通業界で年商二兆円を超える一風堂は、全国で三百店舗を展開する大手のスーパーだが、中でも屈指の売り上げを誇る目白店で爆発事故が発生し、多数の死傷者を出す惨事となった。この事件の第一報は、一風堂本社ばかりでなく、メインバンクである白水銀行にも大きな衝撃をもたらした。
というのも、ワンマン社長が君臨する旧態然の体制が禍(わざわい)し、経営不振から実質的な債務超過に陥った一風堂は、白水銀行の大幅な融資により経営再建に乗り出したばかりであり、事件はそんな矢先の出来事だったからである。
やがて事前に脅迫状が送達されていたことが判明するとともに、企業テロの疑いが濃厚になり、犯行は一風堂グループの強引な戦略を恨む者の仕業との見方が強まった。脅迫の件が公表されるやいなや、一風堂の株価は急落し、警察の捜査も、さしたる手がかりがないまま暗礁に乗り上げてしまう。
主人公の板東が籍を置く銀行の審査部は、通称「病院」とも呼ばれ、赤字や債務超過など、著しく業績の悪化した企業を担当する銀行の一部門である。この業界で言う「入院患者」とは、病人で言えば瀕死の重症であり、一風堂の担当がこの審査部に移されていることは、その経営が危機的状況に陥っているからに他ならない。
作者は、物語の開口一番、そのあたりの舞台や背景を、登場人物たちの多彩な顔ぶれを織り込みながら、手際よく読者に呑み込ませていく。まさに金融やビジネスの世界に通じたこの作家の自家薬籠中の技といっていいだろう。
そんな情報小説としての質の高さが、この作品の表向きのセールスポイントだとすると、その内側に秘められているのは、すぐれた社会性と正義感である。
主人公の板東は、なんでも課題を先送りにする銀行の保守的な体質に、きわめて批判的なバンカーとして描かれる。いわば改革派の彼は、生き馬の目を抜くセクショナリズムの荒波の中で、爆破事件の真相に迫る調査を続ける一方で、銀行内部の保守的な体制に楔(くさび)を打ち込んでいく。昨今の銀行業界の混乱ぶりを見るにつけ、作者の金融界に向ける厳しい眼差しに、胸のすくような思いを抱く読者は少なくないだろう。
かつての私のように、本作の『株価暴落』というそのものずばりのタイトルに、しり込みする読者もあるやもしれない。
しかし、そのタイトルのやけに乾いた響きとは裏腹に、この『株価暴落』には、連続爆破事件の容疑者とそれをとりまく人々のドラマと人間模様がきちんと描かれている。そのセンチメンタルでペシミスティックな部分だけをとりあげれば、金融ミステリという枠組みにそぐわないのでは、と危惧する向きもあるだろうが、その非常に実直で真摯な語り口が、それらの異なる方向性を、見事にひとつの物語にまとめあげている。
読み手の心を動かさずにはおかないという点では、タイプこそ違うが、作者のマイルストンとなった傑作『BT'63』に一歩もひけをとらない。そのストーリーテラーぶりを大いに称えたい。
株価暴落
発売日:2014年08月01日
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社会性と正義感を秘めた情報小説
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