役者を、こともあろうに早稲田の大隈講堂の舞台でやったことがある。学生時代のことだが、劇団自由舞台というところに入っていた。先輩には大岡越前の演技などで知られる加藤剛がいたし、現役では今では国際的にも演出家として活躍している鈴木忠志がいた。劇作家になった別役実もいて、彼は「ボクの名前は本当は『べっちゃく』と読むんだよ」と教えてくれた。
「別役」の名前の発祥は土佐で、戦国時代の長宗我部の家臣にも別役姓が見受けられる。また、そのころ劇団「こだま」にいたと聞く田中角栄の娘の眞紀子が、自由舞台の稽古を覗きに来ていたのをときどき見かけたりもした。
大隈講堂で演じたのは、アイルランドの劇作家、ジョン・M・シングの「海へ騎(の)りゆく人々」で、私の台詞はアラン島の海で亡くなった漁師が眠る棺を担ぎながら、「釘はあるかい」という一言のみだった。
自由舞台に入った理由の1つはこのころの劇団にはとても自由な雰囲気があって、好き勝手なことが言えたからだと思う。
大学でのこと。あるとき、授業の際に、教授から「君の家の資料を見せてくれないか」と声を掛けられた。それで系図を学校に持ちだすことになって、たまたま鞄に入れていたものを劇団の仲間に自ら見せてしまった。
「この紙切れにどんな意味があるのか。人間というのはもともと自由な存在だ。1個の裸の肉体にこそ意味がある。こんな系図に表現される衣を今でも君はかぶっているのか」。それを見せたがためにこっぴどく批判された。
当時は、大学や国をはじめ伝統という名のもとに隠れている因習など古いものを壊して、新しいものを見出していく、そういう時代の流れであった。自分の家系を自慢するつもりは毛頭なかった。こういうものもありますよ、という程度の気持ちで見せたのだが、軽率であった。だから、それ以降「長宗我部(ちょうそがべ)」の系図はしばらく封印してきた。しかし、そのことはずっとどこか私の中で引っかかっていた。
「人間は、いきなりこの世に生れ出てくるものではない。遠くても先祖となる人々がいて、祖父母がいて、父親、母親がいて、そして自分がいる。そうした人々の歴史の流れの中から、自分は生まれ、今の存在がある。とにかく自分はそうした続きの中にいるのだ」という考え方が私の心の芯の部分にはあったからだ。