そんなクラス会の席上で、ひとりの同級生が話題にのぼることから物語は動きだす。テレビや映画、CMでも活躍する女優「キョウコ」。かつては同じ教室で学ぶクラスメイトだったのに、いつの間にかすっかり有名芸能人となったキョウコは、これまでに一度もクラス会に出席していなかった。それは単に忙しい、スケジュールが合わないというだけではないのではないか。高校時代にキョウコが交際していて、後に別れた清瀬陽平の存在が欠席理由のひとつなのではないか。あれこれと噂話で盛り上がりつつ、島津たちはキョウコをクラス会に出席させるべく策を練り、彼女にアプローチを仕掛けてゆく。
その過程が、聡美や紗江子、由希や島津らの視点から描かれるのだが、物語が進むうちに、それまで見ていた情景が次第に色を変え、気がつけばまったく異なる絵になってゆくのだ。この「○○だと思っていたら実は○○だった」という驚愕は、ミステリーを読む大きな楽しみの一つで、本来ならばここで、それがあるよ、と記すことさえ、ルール違反だとも思う。けれど、本書には、それを明かして尚、揺るがない凄味が備わっているのだ。
一見「勝ち組」に見えた主人公たちが抱える、嫉妬やコンプレックス、虚勢や鬱屈を、愚かしいことだと笑える読者は、恐らくそう多くはないはず。「理想」と「現実」の狭間でもがき、いつも、いつでも陽のあたる場所に居たいと願い、けれど足元から差し込んでくる影に怯え、「あの頃」という居場所に逃げ込む。その弱さも狡さも、他人事(ひとごと)だとはとても思えない。
二〇〇四年に『冷たい校舎の時は止まる』で第三十一回メフィスト賞を受賞し、デビューした辻村深月の作品は、ジャンルとしてはミステリーに分類される。けれど、いつからだろう、そう、第三作の『凍りのくじら』と、続く『ぼくのメジャースプーン』あたりから、個人的には物語に練り込まれた「謎」とその「答え」を目的として辻村作品を読むことはなくなった。この両作品にも、そして後に刊行された『スロウハイツの神様』にも『名前探しの放課後』にも「謎」は含まれていて、確かに驚かされたし、楽しくもあったが、それ以上に、登場人物たちの切迫した心情描写に魅了された。
その類稀(たぐいまれ)な作家としての武器が、本書ではプロローグからエピローグまで惜しみなく使用されている。これまでの辻村作品が一定方向の熱で胸を焦がすストーブであったと喩(たと)えるならば、本書はまさに太陽のような、全方向の熱が放たれている。凍りついていた心は、必ずやとけだしてしまうので要注意。強く眩(まぶ)しく、目を逸(そ)らしたくなるけれど、泣きたいほど暖かいのだ。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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