2012.05.29 書評

学生運動の「闇」と団塊世代の
「謎」に迫る異色ミステリ

文: 堂場 瞬一 (作家)

『衆』 (堂場瞬一 著)

 私は「新人類」である。

 ということを初めて意識したのは、就職がきっかけだった。職場で、先輩たちから「よう、新人類」とからかわれたのだが、ぴんとこなかったのを覚えている。

 そもそも何が「新」だったのだろう。大量消費社会の申し子。先行する世代との価値観の違い(何か、無機質っぽかったそうだ)。まあ、そういうことなのだろうが、本人がそう思っていないのだから、反論しようもない。当事者は自分のことを冷静に分析できないもので、単に馬鹿にされたようにしか感じなかった。

 そのように私を評した先輩たちは、ほぼ「団塊の世代」だった。

 若者を世代別に括る試みは、まさに団塊の世代から始まったと言っていい。その後、「シラケ世代」「新人類」「団塊ジュニア」と続き、今は「ゆとり」だろうか。

 人のことは平気で「~世代」と揶揄するのに、自分が指摘されると気にくわないというのは、どの世代でも同じだろう。「同じ世代というだけで括れるわけがない。一人一人が違う」という定番の反論があるのだが、自分たちのことをそんな風に言いながら、他の世代に関しては一括りにしてしまう。何をかいわんや、だ。

 ただ、社会に馴染んでしまうと、そういう「世代括り」は次第に関係なくなる。同じ仕事をしていくうちに、世代ではなく仕事の内容で括られるようになるからだ。私をからかった先輩たちとも普通に仕事をした。

 それでも、団塊の世代に対する緩い不信感はずっとあった。後に仕事で、日本の近現代史を社会運動的な側面から調べることになった(具体的に書くといろいろまずいことになるので、研究者みたいな言い方にしてます)のだが、知れば知るほど、彼らは私の理解を超えた存在だと分かっただけだった。もちろん、あの時代についても理解不能である。

 何か変だ――ただそれを、声高に言うことはなかった。あの世代の人たちは、どういうわけか、攻撃されてもダメージを受けないのだ。どんな暴言を吐いても、「活発な議論で結構」と受け流されてしまっては、喧嘩するのも馬鹿馬鹿しくなる。

 と、つい鼻息が荒くなってしまうのだが、小説を書く上で、団塊の世代を積極的に登場させようと思ったことはない。

 警察小説なら、主人公はどうしても働き盛りの30代、40代になる。気力、体力ともに充実しているのはこの世代だからだ。

 スポーツ小説なら、当然登場人物はもっと若い。私は、「スポーツマン26歳最盛期説」(体力的に26歳がピーク)を信奉する人間の一人だし、スポーツにまつわる人間ドラマではなく、そのスポーツの魅力をダイレクトに描写したいと考えているので、どうしても主人公は20代になることが多い。

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堂場瞬一・著

定価:1838円(税込) 発売日:2012年05月30日

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