橋にかかったころから,垂れこめた雲にごく淡い赤ぶどう酒いろのけはいがあるようで,目のせいかといぶかるうち手すりにも波にもその色はたゆたいはじめ,ひとひ,ひしひしと閉ざされていた日輪が昏(く)れがけにほのかに街を染めることの優しさにさそわれて,行ったことのないほうへと曲がっていた.
帰りつけばねむり,醒めれば出かけ,休みにはぎゃくにこもりきりというふうで,駅への道と公衆浴場への道しか歩かないで過ぎた.恋にはたらきほうけた.恋にあそびほうける者もあるのになぜいつもこうなってしまうのかとおかしいが,このはたらくとは世間的ないみあいでのことで,私がすべきこととはちがうことに時と力とをついやしているにはかわりないのだから,あそぶと言いかえてもおなじでないこともなかった.
ひとしきり店が並んで,録音盤を売る小さな構えから,長くわすれていたむかしのはやりうたがもれてきた.夕やけと港と舟と,その哀傷がおもいがけなくこころにはまって,そのふしを聞くためにだけまわりみちをしにきたような気がした.それは,しなければいけないことをしないでいるひまに小やみなくすべりおちていく時と力への,とりかえしのつかない悔いと怖れとに私をひきずりこみ,だからすこしも向きあいたくなどない暗澹なのだが,なおせめてもにうしないつくしていない,しなければいけないことへの執念,それを逃げていてもまだ私が私であることのあかしとしての鬱情への,短急な導入部としてとどいてきた.
あるときは光,あるときは匂い,あるときは湿りが,ふいに導入部を奏で,そこに数百じかんいすわれば物が書けはじめると知りながら,すぐに身をかわすほかない日日がつもっていた.逃げてばかりいるうち導入部さえもおとずれなくなりはしまいかという不安によっても,たったいまぬぐわれたその不安なのにまたしても見おくるほかないあせりによっても,うたは鋭く私を責め,それでいてそれを聞くためになら,遠まわりしてよかったとおもうのだった.
乙白(おとしろ)を見きるくふうをしなければいけなかった.
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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