聞けば聞くほど完全無欠の夫で、それではどうして離縁したいと駆け込んで来たのか、全く訳が解らない。
信次郎は書記役の分を忘れて口を出す。本当はあなたのほうに男がいるんだ。
あなたは恋をしているんだ……。
「あたりましたよ、信次郎さん。さすがは作者、ひとのこころを見抜く眼力がおありね」
ここへ来るまでの会話で、信次郎が戯作者であることを知っていたおせんは、澄んだ声で笑ったあと、真顔になって、
「たしかに、わたしは恋をしている」
「それ、ごらんなさい」
「この十五年間、ずうっと夫に恋をしてまいりました。この気持は未来永劫、変わりません」
まるで不条理劇である。
だが、取り調べのための離れ座敷を出たあとで話し合ってみると、源兵衛と利平はすでに真相を見抜いていた。
推理を口に出していうのは利平である。
信次郎が、利平の写したおせんの口上を、ずっと通して読んでみると、確かにその推理の通りなので、読者にしてみれば、それまでの伏線が一遍に起き上がって来て、謎がきれいに解ける。
こんな風に、この連作は、各篇が一話完結の短篇ミステリーになっていて、新米の探偵役の中村信次郎が、駆け込んで来る女たちが背負うさまざまな事情を知って、だんだんに成長して行く物語なのである。
つづく各篇も、『東慶寺花だより』というタイトル通り、「桜の章 おぎん」「花菖蒲の章 おきん」と、それぞれ季節の花と主人公の名前を結ぶ趣向で綴られて行くのだが、「鬼五加(おにうこぎ)の章 おこう」で、字も読み方も初めて知らされた「オニウコギ」というのがどんな花なのか、『広辞苑』にも『新明解国語辞典』にも出ていないので解らない。
「鬼五加」と漢字をそのままパソコンに打ち込んで検索し、ウコギ科ウコギ属の標準和名「ケヤマウコギ」の別名で、枝に刺(とげ)があり、八月~九月にヤツデ(これもウコギ科)のような球状の花を咲かせ、春に出る新芽は山菜として食べられる植物であると解った。
この篇の主人公おこうが嫁いだのは、春の新芽どころか、夏場はおかずが垣根がわりに植えているオニウコギの葉で、おひたしも、あえ物も、揚げ物も、汁の実も、全てウコギの葉、お茶の葉も年がら年中干したウコギの葉……という、並外れた吝嗇(りんしょく)家で守銭奴の母子の家であった。
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