おこうは、手拭で頬被りをした姿で東慶寺にやって来て、手拭を取ると、下から髪のない「毬栗頭(いがぐりあたま)、もっとはっきり云えば禿げ山のような頭」が現われる。
読み終わってから、あらためてネットの頁に出ていた写真を見れば、その頭はまさにオニウコギの花の形にそっくりなのだ。もっともそのことを知らなければ、この篇の妙味が解らないということはない。
そこに到るまでの成行きは、読んでいただくしかないが、おこうは髪の毛をかもじ屋に売って金にしようとした強欲な姑に体を抑えつけられ、夫が手にした剃刀で髪を切り取られて、とてもこんな家にはいられない、と飛び出して来たのであった。
だが、関係者一同が、柏屋に集まって行なわれる「相対熟談(あいたいじゅくだん)」の場で、事態は意外な結末を迎え、これは母親から初めて自立を果たす息子の物語となって、爽やかに締め括られる。
読み進むにつれ、江戸時代の女性が、たとえどんな立場に置かれようとも貫き通した嫋(たお)やかな勁(つよ)さが、全篇を通じてありありと浮かび上がる。
そして、これは事実中心、実証中心の歴史認識にたいして、心性や感性を重んじたというアナール学派をおもわせる歴史観で描かれた江戸の庶民の歴史、とりわけ女性史であることが解ってくるのである。
本年四月九日に、深く惜しまれつつ他界した作者を偲び、文春文庫で新装版として刊行されることになった『四十一番の少年』の解説を書くため、収録された作品を「別册文藝春秋」に発表された通り、「汚点(しみ)」「四十一番の少年」「あくる朝の蝉」の順に読み直して、井上ひさしは稀代の「物語作者」であったことを、あらためて深く痛感した。
読者の多くは、作者の「自伝的小説」として読むであろうし、確かにそうには違いないのだが、これは稀有の「物語作者」がどのようにして誕生したか……その恐るべき辛酸の過程をつぶさに描いた「物語」なのである。
四十一番の少年橋本利雄は、どうしても抵抗できなかった十五番の少年松尾昌吉の圧倒的な暴力による恐怖の専制支配に、最後の最後で背を向けて訣別し、二十四年ぶりに作品の舞台である孤児院「ナザレト・ホーム」を訪ねた時には、TV局の制作者になっている。
そして作者井上ひさしは、想像力で膨らませた怪物松尾昌吉と、自分の分身である橋本利雄の双方を対象化し、二人の人間関係を小説化することによって、稀代の物語作者となった。
いや、その小説化の手際の鮮やかさからして、もともと天性の物語作者であったというべきなのであろう。
それにしても、これほどまでに辛く苦しい少年時代を送りながら、どうしてあれほどまでに明るくて優しい人柄の持ち主になることができたのだろうか……。
井上ひさしという存在は、それ自体ひとつの奇跡であったようにおもわれる。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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