造仏を指揮したのは百済系渡来人の仏師将軍万福。たしかにこの徹底したリアリズムは、海の彼方から渡って来たものに相違あるまい。
万福が用いた「脱活乾漆(だっかつかんしつ)」という技法は、中国で古くから行われてきたもので、まず粘土で大まかな形を作り、その上に麻布を何枚か漆で貼り合わせ、原型の塑土を取り除いて内部を空洞にし、外側の麻布の表面に木屑を漆で練り合わせた木屎(こくそ)漆を鏝(こて)で厚く延ばして表面の形を整え、さらに細部の微妙な凹凸を先の尖った篦(へら)で入念に細工して、あの迫真的な表情に仕上げて行く。
陶製の兵馬俑と材質は異なるが、工匠の目の前にモデルがいたのは同様であったろう。
異類の貌をした迦楼羅と鳩槃荼は別にして、ぼくの目には、沙羯羅と五部浄は少年、乾闥婆は青年、緊那羅は成年、畢婆迦羅は壮年か初老の男性の顔を忠実に写したものと見える。
では阿修羅のモデルは、誰であったのか……。
多くの人はそれを「少年」とし、少数の人が「少女」とするが、当方の推理はそのどちらでもない。
服装における最大の特徴は、ほかの七体が揃って堅固な鎧を(よろい)身につけているのに、一人だけ全く武装していないことで、阿修羅といえば、荒荒しい闘争心の権化であるはずなのに、そうした面影は微塵もなく、まるで清純な信仰心の化身のように表現されている。
しかも、その身なりは正装でも礼装でもなく、どう見ても普段着だ。
古代の服飾にたいする専門的な知識がないので、敢えて現代語で感想をいわせてもらえば、上半身は肩に残る天衣(てんね)と斜めにかけた条帛(じょうはく)のみ、下半身は裾がさほど長くない巻スカートで、いかにもカジュアルである。
服装は庶民的なのに、瓔珞(ようらく/ネックレス)、腕釧(わんせん/ブレスレット)、臂釧(ひせん/二の腕の腕輪)と、舶来の最高級品に相違ないアクセサリーを身につけている。
ぼくの推理で仏法の守護神・阿修羅のモデルとして、普段着で工匠の前に立てるのは、ただ一人しかあり得ない。
すなわち、光明皇后である。
何より寄せた眉のあいだに漂う憂いと悲哀の色に、苦悩の絶え間がなかった皇后の内心が垣間見られる気がしてならない。
その悲哀と苦悩が如何に深いものであったのかについて、文春新書『「阿修羅像」の真実』に詳しく書いた。生涯のテーマと決めていた光明皇后について書き終えることができた今、ぼくはかなりおもいのこすところなくこの世に別れを告げられそうな気がしている。
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