最近、「弱さ」について考えることが多い。正確にいうと「弱さ」の「強さ」とでもいうものについて。
きっかけは、次男が脳炎で入院して危篤に陥ったことだ。彼が運びこまれたのは子ども専門の病院で、患者の多くは重篤だった。そして、次男が回復する傍らで、多くの子どもたちが亡くなっていった。
その場所でわたしは、長い闘病生活を続ける子どもに付き添う母親たち(父親はほとんど姿を見かけなかった)の姿に強い印象を、いや感銘を受けた。彼女たちは、信じられないほど明るかったのだ。
その理由は、わたしにもわかるような気がした。次男が回復不能かもしれないと告げられた後、しばらくしてわたしは、かつてないような強さがわたしの内側に芽生えたのを感じたからである。そして、気がつくと、わたしは、様々な場所に「弱い」といわれる人たちを訪れるようになっていた。
この本の主人公「鹿野さん」は、「弱い」人の代表だ。「最弱の人」といっていいだろう。「鹿野さん」は、難病の筋ジストロフィーにかかっていて、ゆっくりと死に向かっていた。筋ジストロフィーは、身体の筋肉が少しずつ動かなくなってゆく病だ。そして、最後には、呼吸や拍動を司る筋肉も動かなくなる。
わたしたちは、いつか自分たちが死ぬことを知っているけれど、そのことから目をそむけて生きている。けれど、筋ジストロフィーの患者とは、「死」へ向かうプロセスを、生きる時間のすべてで味わうことになる。あるいは、生きる時間のすべてが、「死」への道筋であることを、強制的に知らされることになる。
そんな状況の中で、「鹿野さん」はどうしたのか。「外」で生きることを選択したのである。
「弱い」といわれる人たち、たとえば、障害者や介護を必要とする老人たちは、この国ではどんな風に扱われているだろうか。
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【映画原作】『こんな夜更けにバナナかよ』山田太一さんによる文庫解説
2018.04.24書評 -
こんな夜更けにバナナかよ
2018.04.24映画・テレビ化情報