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軽やかである、ということ

軽やかである、ということ

文:瀧井 朝世 (ライター)

『余命1年のスタリオン』 (石田衣良 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

 では本作はどうか。事務所の社長に「あなたもわたしも悪いことなんて、ぜんぜんしていないのに」と言われた時は、〈当馬は過去につきあった何人かの女性の顔を思い浮かべた。悪いことなら何度かしている。きっと自分はまっすぐ天国にはいけないだろう。なんだかおかしな精神状態だった。〉とある。この男は、簡単には自己憐憫には陥らないのだ。もっとも、その後、母親に電話で病を報告しながら〈自分がかわいそうでならなかった。(中略)世のなかには品性下劣で悪行ばかりしているのに、健康な人間が無数にいるのだ。命は不公平である。〉という心の内も綴られている。これがあまり鼻につかないのは、自分を哀れんでいるというより、母親が同情してくれないあまりにすねてしまっての言葉だからである。この場面、母親の対応がすごい。どうすごいかはぜひ小説内でご確認いただきたいが、このお母さん、肝っ玉の据わりようが半端ではない。きっと電話を切った後で一人で泣いたに違いないが、息子に対しては憐憫を見せない。この母あってこそ、彼のその後の人生は大きく変わっていくのだ。

 この母親と同じように、周囲の女性たちの心根の良さも、本書の大きなチャームポイントだ。仕事人間の沢松社長、ド新人から目覚ましい成長を遂げていくマネージャーのあかね、医者として率直な意見を述べる元妻、共演者となる高瀬川律子……。私がいちばん好きなのは当馬の愛人の一人、都留寿美子である。五十歳近いがまだまだ美しく、恋を存分に楽しんでいる豪放な女優だ。当馬の最初の治療入院の際、他の愛人は見舞いを断ったにもかかわらず来院するが、彼女だけは顔を出さない。その時点からかなり好感度が高かったのだが、終盤、思いもよらない打ち明け話に対する彼女の態度には惚れ惚れした。胸中は穏やかでないのは確実なのに、毅然と大人として振る舞ってみせる。彼女もまた、一人になった時に泣いただろうと簡単に想像できるから、ますます好きになる。人の人生を支えるのは、身近にいる人間だけではなく、彼女のように思いを胸にしまって、適切な距離を保って見守ってくれる人間も含まれるものなのだ。こんな風に大人の女性がちゃんと大人として、魅力的に描かれているのも、石田作品の美点。

 当馬の挑戦や治療がどのような結末を迎えるのかはここでは明かさない。ただ、テーマは重いが軽やかなこの作品が、爽やかな読後感を残すことは保証したい。“軽やか”であるということは、軽薄であるとか何かを軽んじているという意味ではない。本書の人々は、抱えるものの重さをバネにして飛躍しようとしている。その強さ、哀しみばかりでなく最期まで歓びを見つめようとする逞しさがバネとなって、読者の心をも羽ばたかせてくれるのである。

余命1年のスタリオン 上
石田衣良・著

定価:本体570円+税 発売日:2015年11月10日

詳しい内容はこちら

余命1年のスタリオン 下
石田衣良・著

定価:本体570円+税 発売日:2015年11月10日

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