そもそも、勝目さんがなぜ純文学と訣別するにいたったかは、二〇〇六年に刊行された自伝的小説、『小説家』に詳しく描かれている。驚くべきことに、この傑作はいかなる文学賞の対象にも、ならなかった。もし、『小説家』がなんらかの賞を獲得していたら、それは作品の名誉というよりも、その賞の名誉になったに違いないのに、無冠に終わったのである。しかし、そのような世俗的栄誉をあっさり超越して、ほとんど仙境(!?)の域に達した勝目さんには、読者の熱い称賛こそが勲章になったはずだ。
勝目さんは『小説家』のあと、いっそう自分自身に寄り添った私小説『老醜の記』、自称一〇九歳の老人の官能的な妄想を描いた『死支度』と、骨太の佳作を精力的に発表する。そして今回の『あしあと』も、創作意欲の衰えなどみじんも感じさせぬ、逸品ぞろいの作品集に仕上がった。勝目さんの小説は、とても傘寿を超えた作家とは思えぬほど若わかしく、清新な感性に満ちあふれている。
この作品集は、〈死〉〈夢〉〈記憶〉〈再会〉〈奇縁〉等のイメージを核として、それらが自在に絡んだり離れたりしながら、独特の情念の世界を構築していく。なかんずく、〈老い〉と〈青春〉の融合と乖離が、目もあやに読者の前に展開される。一見、人為的にも感じられる〈偶然〉の連続が、鮮やかに〈必然〉に転換昇華していく構成は、まことに心地よい。まさにおとなの読む小説、それも極上のブランディを飲むように、寝る前に少しずつ楽しむべき、ぜいたくな作品集である。
いずれも、原稿用紙四十枚前後の短編だが、描かれる世界はまことに多彩だ。女の視点で書かれたものも多く、さすがに女心をよく知るベテランの筆、と一読うならされる。さりながら、「正直、女のほんとうの姿は、よく分からぬ!」といった、本音のようなものがかいま見えたりして、なんとなくほっとさせられもするのだ。
どの作品にも心を打たれるが、わたしは「ひとつだけ」に描かれた、九十二歳の老女のみずみずしい思い出話に、しんから泣かされた。また、「人形の恋」に描かれた女同士の恋は、むしろ女性作家には書けないのではないか、と思わせる透明な美しさがある。さらに、「橋」の高校生が初めて女を知る〈どきどき感〉は、そのまま読者の若き日の甘い記憶を、呼び覚まさずにはおかない。
こうした佳品を含めて、この古い上質の革袋に収められた、新鮮にして芳醇な酒を味わう一夜は、何ものにも代えがたい至福のときとなるだろう。
初出・「本の話」二〇一四年五月号
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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