そして、前述の『犯科帳』が岩波新書で刊行され、一般読者も容易に手に入る本だったので、長崎ものの捕物帳となると、さて、どの挿話をネタにしているかな、などと意地の悪い読者は考えるようになってしまう。が、やんぬるかな――本書を読む限り、参考文献をきちんと踏まえつつも、題名に偽りなしというべきか、“秘録”という事件の性質上、本書で扱われる犯罪は闇から闇に葬るべき性質のものであるため、オリジナリティーが充分に発揮されていた。作者のなかなかの手だれぶりがうかがえよう。
それから、未読の方のために、あまり内容に深く立ち入ることは避けたいのだが、主人公・伊立重蔵の登場の仕方がいい(それはぜひお読みになって確かめていただきたい)。錺師の善六が、「おめえいったい何者……」というように、何か謎めいている。もしかしたら、この男、長崎奉行所にいた本当の重蔵か、もしくはそれをなぞらえたものか――。とまァ、色々な詮索(せんさく)ができるのも読者の特権というものだろう。
そして長崎という場所、正に日本の中の異邦ともいうべき場所であるだけに、伊立重蔵も江戸のように思うように動くわけにはいかない。自治の許されている長崎で、大きな力を持つ乙名の存在。さらには、唐人大通事。権力を笠に着る町使たち。裏の顔役が放つ殺しの稼人の襲撃。さらには、重蔵が属する西役所は、咎人の吟味をする権限がない等々、さまざまな危機や壁と立ち向いながら、彼は、信頼の置ける仲間たち――前述の善六や若き熱血漢・主税らによる情報のネットワークをつくりつつ、巨悪に対峙していく。
そして、最後に重蔵が事件を“秘録”としてどう片づけるかも読みどころの一つといえるだろう。
これらのことどもを、長崎の風土感の中から立ち上がらせ、独特の長崎弁が飛び交うのを読むと、かつて、池田一朗(隆慶一郎)がメインライターとして脚本を書いていたTVドラマ「長崎犯科帳」(主演・萬屋錦之介)を思い出さずにはいられなかった。だが、その隆も錦之介ももはや他界して久しい。
だが、その代わりに指方恭一郎が、時代小説ファンには心地よい長崎からの風を吹かせてくれることになった。嬉しい限りだ。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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