そして結論からいえば、大作は処刑されることによって、自分の命と引き換えに、津軽の家筋は南部の臣下であったことを公にする判決を勝ち取ることに成功するのである。
天晴れ忠義の臣というわけだが、さて、この作者がそんな安易な解釈をするわけがない。
では一体、梶さんはこの作品のテーマを奈辺に据えたのであろうか。結論からいえばそれは人の命の重さではないのか。大作は己が死をもって主君の恥をそそいだ。ここで、死をもって抗議するということの意味を考えれば、これは人間だけにでき得る行為である。そこには、人間には命より大切なものがある、という考えが存在するからだ。が、果たして、大作の死は、それほど美しいものであったのか?
ここで活きてくるのが、本書の主役を大作にふらず、泰平の世にあっていささか箍(たが)のゆるんでしまった一千石の旗本、神木家の嫡男、光一郎とした点である。そして作品は、檜山騒動を通しての彼の成長物語として描かれていくのである。光一郎は、大作を無縁の者として葬ろうとする、南部盛岡藩を許すことができず、「やはり相馬さんは大馬鹿だ。命を賭す価値など、この藩にはどこにも見当たらぬ」と憤りを抑えることができない。
が、これは現代に生きる私たちの考えではないのか。徳川三百年の歴史を顧れば、一体、どれだけの武士が封建の掟の下、自ら命を断ち、或いは断たれてきたであろうか。それら、忠義の名の下に死んでいった武士たちのほとんどは、いかに理不尽な状況であっても従容(しょうよう)として最期の時を迎えたに違いない。また、そういうきびしさの中にあって、いささかもうろたえることがなかったからこそ、武士は四民の頂点に立てたのである。
では、作者は、何故、光一郎を通して現代的な視点を持ち込んだのか?考えてみるがいい。大作の場合はまだ、侍の掟の中に生きていたのだからこそ、致し方がないといえるだろう。が、私たちの〈現在〉を取り巻く状況はどうだ。少なくとも私たちは、基本的な人権が保障された民主国家の中で生きているはずではないのか。
にもかかわらず、昨今の人の命が小石ほどの重さも持たぬ風潮はどうであろうか。イジメの問題、後期高齢者介護の問題等で死をもって抗議する人が出ても、人間が、社会そのものがその重みを理解しようとしない。何と哀しいことであろうか。その意味で、大作の死は私たちを取り巻く〈現在〉へと地つづきであり、物語のラストで平山行蔵の放った鉄杖の音は、いま正に「哀れみと怒りに満ち」て私たちの耳に届いたといわざるを得ない。
素晴らしい手ごたえに満ちた力作の誕生だ。
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