この手術がなければ、はたして作家渡辺淳一は誕生しただろうか。
昭和四十三年(一九六八年)八月八日、和田寿郎教授をリーダーとする札幌医科大学胸部外科チームは、日本で初めて心臓移植手術を行い、「快挙」として日本中の話題をさらう。しかし、レシピエント(患者)が術後八十三日目に死亡。このあと、ドナー(臓器提供者)の死の判定や移植適応の問題など、手術の妥当性についてさまざまな疑惑が噴出した。
当時札幌医大整形外科講師だった渡辺は、「オール讀物」に「小説心臓移植」(のちに単行本化)を発表。手術に疑問を呈する形となり、主任教授や学内の他の医師たちからの批判に合う。医局にいづらくなった渡辺は大学を去り、作家を志すこととなったが、渡辺は当時、執筆の動機をこうのべている。
「医学の進歩と精神面での進歩のギャップを痛切に感じて、いつもこの深い谷間を考えていました。自然科学の渦にとり憑かれていく人間、動かしているつもりで逆に科学にもてあそばれている人間、こういう悲劇を心臓移植というテーマで描いてみたのです」
渡辺淳一は、昭和八年生まれ。昭和三十九年、札幌医大助手となり、また同人誌にも参加して、昭和四〇年、「死化粧」で新潮同人雑誌賞を受賞、芥川賞候補にもなっていた。
大学を辞める直前、有馬頼義が主宰する「石の会」に誘われる。「石の会」には五木寛之、後藤明生、早乙女貢、立松和平らがいた。ここで、有馬からの励ましを受け、また若手作家たちの知遇を得て切磋琢磨する。昭和四十四年春に上京後、両国の病院に勤務しながら、創作活動に邁進するが、不安と焦燥の中での生活が続く。
「大学をやめたのは、本当に間違っていなかったのか。心臓移植につまらぬ発言をして、自分は一生を誤ったのではないか。このまま、こんなところに勤めていて、はたしていいのだろうか」(「四月の風見鶏」より)
昭和四十五年、「光と影」で第六十三回直木賞を受賞する。初期には、「無影燈」「麻酔」などの医療ものや「花埋み」「遠き落日」「白き旅立ち」など医学にかかわった人間などを中心とした歴史的人物の評伝など、社会的なテーマを扱った作品が多い。
昭和五十六年、毎日新聞に連載された「ひとひらの雪」が、現代に生きる大人の恋愛を描いてブームを呼び、単行本は大ベストセラーになる。以降、「化身」「失楽園」「愛の流刑地」など、男女の愛を、大胆な性の描写を通して、狂おしいまでの生命の耀きとその破綻を書き続け、圧倒的な支持を得た。
平成二十六年(二〇一四年)没。写真は平成十三年撮影。