あるレコード会社の人がこんな話をしてくれたことがある。
仕事でアメリカに行った時のこと(イギリスだったかもしれないが、ここで国は重要ではない)。当時、「レイジ」の中でも名前が挙がるバンド、ザ・ポリスの名曲「見つめていたい」が大ヒットしていて、街のあちらこちらで流れていた。そんな中、現地の若い女性が、ふいに流れてきたこの曲を聴きながら言った。「ディス・イズ・マイ・ソング」。これは私の歌だ。この言葉こそポップミュージックの本質じゃないだろうか――。そんな内容だった。
赤の他人が作ったものなのに、描かれているのは紛れもなく自分だと感じられる。もしくは信じられる。音楽に限らず、小説でも映画でも漫画でも、一定の人にそんな魔法をかける作品がたしかに存在する。僕にとって、小説「レイジ」がそれだ。
ここで軽く自己紹介を。僕はバンドで2003年にデビューし、アルバムを何枚か発表している。パートはギターと歌。曲を作ったり、詞を書いたり、アレンジをしたりもする。世の中にたくさんいる、自分なりの切実さで音楽と向きあってきたひとりだとは言ってもいいと思う。
音楽を作っているからといって、バンドを扱うエンターテインメント作品に対して、人並み以上の関心を抱いてきたわけではない。むしろ、意識して距離をとってきた。理由ははっきりしている。フィクションの中では、たいてい曲がいとも簡単に作られている(ように思える)。そのことに、毎回どうしても違和感を覚えてしまうからだ。地味で、泥くさくて、技術的な要素も多分にあって、でも感性がないと始まらない、なんともやっかいな曲作りという作業は、フィクションにはそぐわないのだろうか……。そう思ってきたから、「レイジ」を読んだ時は本当に驚いた。そこでは曲作りの過程や苦悩が克明に描かれていながら、同時に、第一級のエンターテインメント作品に仕上がっていた。
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