- 2016.05.01
- インタビュー・対談
小説の流儀、映画の作法――横山秀夫(原作者)×瀬々敬久(映画監督)【前編】
「別冊文藝春秋」編集部
『64(ロクヨン)』 (横山秀夫 著)
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
“永遠の記者クラブ”を具現化
瀬々 ところで小説の舞台を“D県警”と英語の頭文字にしたのには、何か特別な意味があるのでしょうか。映画では群馬県警にしましたが、頭文字がDの県ってありませんよね。ずっと疑問に思っていました。この機会にその由来を教えてください。
横山 改めて言うと気恥ずかしいですが、実はDは「『ドラえもん』のどこでもドア」から取っているんです。DDDでDが三つ並ぶでしょう。
瀬々 えっ、そうだったんですか!
横山 新聞記者をしていたとき、他県の記者たちと情報交換をするじゃないですか。すると全国どこでも地方警察の抱えている問題は、本質的に同じだということがわかってくる。ですからD県警という名称は総称であり、全国どこの地方の警察組織にも通じるという象徴的な意味合いを持たせたんです。
瀬々 「ロクヨン」の捜査とは別に、物語のもう一つの柱として、広報室と県警記者クラブの攻防がありますよね。県警は、交通事故加害者が妊婦であることを理由に氏名の公表を拒みますが、それに記者クラブが猛反発して、三上は上司と記者クラブの板挟みとなってしまいます。いろいろな問題を設定することができたと思いますが、なぜ匿名問題だったんですか。
横山 これも“D県警”と同様に普遍的なことを描きたいと思ったからです。匿名問題は、マスコミと警察がお互いに譲ることができないぎりぎりの問題で、どこの地方の警察でも延々と議論が繰り返されてきている。『64(ロクヨン)』の舞台となるのは平成十四年ですが、マスコミと警察の基本的な関係性は時を経ても変わらないと考えています。その時代ごとに特有の問題は起きるでしょうが、小説として最先端のものを追いかけてもすぐに古びてしまう。でも、元から古びた時流に流されることのない問題を描けば、普遍性を獲得できるのではないかと思ったわけです。
瀬々 撮影に入る前に横山さんは、「記者の一人一人を丹念に個性ある人間として描いてください」とおっしゃった。この言葉がすごく印象に残っているんですね。僕はこれが、横山さんがこの映画につけた唯一の注文だと思っています。
横山 それは何度も申し上げましたね。
瀬々 普通なら、こういう場合の新聞記者は三上を吊し上げて話を転がす記者A、記者Bと記号的な存在になってしまうんです。だから、主人公の窮地を際立たせるためだけの存在にならないよう、キャスティングも含め大切にしたいという思いが強くありました。
横山 確かに、セリフを発している以外の記者たちの細かい表情をも含めて隅々にまで神経が行き届いていて、真に迫るものがありました。一人一人の記者が葛藤を抱えつつ、それぞれの社を背負って記者クラブに来ていることが画面全体からしっかり伝わってきました。
瀬々 作家になられる前に、敏腕記者として最前線で取材にあたられていた横山さんにそう言っていただくと、本当に嬉しいですね。実は撮影に入る前に、現役の新聞記者の方に来ていただいて、記者とはどういうものかレクチャーをしてもらったんです。
横山 へえ、そんなこともしていたんですか。
瀬々 本物の記者がどんな風にメモを取っているかもわかりませんから。その他にも、記者クラブと県警の関係がどんなものかを教えてもらったりして、徐々に記者クラブの空気感ができあがっていったんです。二十六人の記者役がいますが、テレビ、新聞、ラジオと様々な媒体があって、それぞれの仕事ぶりやキャラクターも細部まで作り込みました。その上でワークショップをして、最終的に誰がどの役を演じるか決めていったんです。
横山 今の話を聞いて合点がいきました。一つ一つの場面に隙がなくて、それが私には心地よかった。小説を書くときに、常々私は職人的な執念深さがなければならないと自分に言いきかせていますが、瀬々さんも同じように映画作りをされているのだと感じます。映画で拝見した記者クラブは、今も昔も変わらない記者たちの本音が渦巻いていました。その意味で、いつまでも古びない“永遠の記者クラブ”が出来上がっていたのではないでしょうか。
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