インタビューほか

『月と蟹』の舞台を歩く

「本の話」編集部

『月と蟹』 (道尾秀介 著)

──物語をつくるための取材というよりは仕上げに向けて空気を吸収するという感覚なのでしょうか。

道尾 慎一と春也と鳴海がいてそれぞれに抱えた事情があって、ヤドカリを使って……というような物語の大枠は、取材時には出来ていました。その上で、たとえばこの建長寺の法堂でお腹のへこんだ釈迦苦行像を見たときに「お釈迦様は自分の意思で断食をしているけれど、たとえば子供が強いられてこんな状態になったらどれだけ辛いだろう」と思ったことが春也の境遇へとつながったりというようなことはあります。自然や風景の描写でも、頭で考えているだけでは出てこない、視覚や聴覚や色んなところからつついてもらって初めて自分の中から出てくる言葉ってあるんですよね。

 去年来たときは慎一たちと同じように十王岩まで登ったんですけど、延々と細い山道で結構きついんですよ。今日は半僧坊までで止めておきませんか(笑)。

鶴岡八幡宮|捨てる自信がついたから舞も見ることができた

本殿から下る道尾さん。鎌倉まつりの際にはこの階段を観客が埋め尽くす賑わいに。
朱が目に鮮やかな、鶴岡八幡宮の舞殿。「静の舞」はここで披露される。

道尾 実は小説を書く前にどこかへ取材に行くというのは『月と蟹』が初めて。今まではむしろ見ないようにしていて、たとえば病院のシーンを書く時は病院に近づかないようにしていたくらいです。自分が見ているのに読者は見ていないという状態だとやっぱり齟齬(そご)が出るんじゃないかと思って。でも、段々と器用になってきてきちんと取捨選択ができる自信がついたから今回は取材旅行をしてみました。

やがて舞台の奥から静御前が現れた。(中略)静の舞は、とても哀しげで、寂しげだった。静御前がうつむくと、その白い頬には涙さえ見えるようだった。(第一章 49ページより)

道尾 僕が見た静の舞は、舞い手が男性だったんです。だからビデオカメラでズームにしてしまったりすると「美人」でもなんでもない。書き慣れてない頃だったら「男だった」ってそのまま書いてしまったかもしれないけど、今はそんなの平気で「服装と仕草のせいで、驚くほどの美人に見え」たとか「哀しげ」だとかフィクションを持ち込める。捨てる腕というか、あくまで自分を通じて出てきたものを書くという、いわゆる作家力がついてきたんだなと思います。

──事実を見たまま書くのではなく。

道尾 伝えたいことをよりダイレクトに読者に伝えるためには、海がこんな色で船が何艘浮かんでいてその背後の山はどんな形でっていちいち書いても仕方がない。情報を一瞬で伝達できる「映像」に「活字」がかなうわけはないんだから、それよりも相手の頭に直接絵をぶつけるような言葉を選べるかどうか。印象派の絵なんて単純な線で削ぎ落として描いているのに写真よりリアルでしょう、あれが理想です。

 僕は小説にしかできないことをやりたい、とよく言うんですが『月と蟹』にはその要素が特に濃いと思います。ラスト近くで慎一が見ているヤドカミ様の描写は、どんな映像技術を駆使しても不可能です。

月と蟹
道尾 秀介・著

定価:1470円(税込) 発売日:2010年09月15日

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