インタビューほか

『月と蟹』の舞台を歩く

「本の話」編集部

『月と蟹』 (道尾秀介 著)

子供が主人公だからこそ書けること

道尾 実は『月と蟹』を書くにあたっては、道尾版『二十日鼠と人間』ということを意識していました。と同時に、書き終えたときには「ミステリーの仕掛けを使わずに『向日葵の咲かない夏』が書けた」とも思ったんです。

──スタインベックの『二十日鼠と人間』は、大恐慌時代のアメリカで二人の農場労働者が貧困や偏見、格差ゆえの悲劇に巻き込まれてゆくという物語ですね。

道尾 あの小説の場合は「理不尽と戦う」という大テーマに対して、主人公が青年だから言葉とか知恵とかある程度の武器を持っています。でも子供を主人公にしたら、一体何を武器に理不尽と戦うんだろうと考えると、物語しかないんですよね。自分で世界を変えられないとしたら、世界の中に自分の世界をつくるか、もしくは本当の世界を自分の世界で包んでしまうしかない。思い込むって言ってしまえばそれまでなんだけれど、子供たちは必死で自分の物語をつくっている。大人なら目の前の世界を壊してしまっても他の世界もまだ存在してることを知っているけど、子供は今見えているものが全世界だと思ってしまうから、必死で守ろうとするんです。

──子供が物語によって自分の属する世界を守ろうとするという点は『向日葵の~』の構造に近いんですね。ミステリーを使わずにそれを書けたというのはいつ思われたのですか?

道尾 最後の一行を書いた時。どの作品でも書き終わるまでは成功か失敗か判らないものなんです。「途中は面白かったんだけどラストがね」というのは、駄作と言われたのと一緒。

『月と蟹』のラストを書き終えて思ったのは、ミステリーの仕掛けを手段として使わなくても同じ事ができるようになったということ。僕は、小説は同じ事をやるなら一文字でも短い方がクオリティーが上がると思っているんです。長いこと自体には何のメリットもないから。仕掛けを入れると、仕掛けの分だけ文字数が必要になる。それと、読者の至近距離ぎりぎりまで近づいて懐に入ったところで刀を抜くのがミステリーだとすると、今まではもしかしたら一ページ目から抜き身を提げている自信がなかっただけかもしれない、と思ったんです。刃こぼれするんじゃないか、どこかで斬り返されるんじゃないか、って。それができるようになったっていうのは、自信がついたんでしょう。

──『月と蟹』の慎一たちと『龍神の雨』の圭介は小学五年生、『向日葵~』のミチオも十歳ですね。

道尾 そういえば……。あまりに幼いと地の文をどう表現するかが難しいし、六年生ともなると体も大人に近づいているし個体差がありすぎる。十歳というのは戸惑いを一番もっている年齢じゃないかと思います。親から離れつつあるけど自立はできないし性的なことも意識しつつあるけど首をかしげるしかない。世界が敵に見えるという時に六年生くらいなら色々と情報もあって「じゃあゲームに没頭しよう」とか考えられるけど十歳だとまだそんなに器用にできないでしょう。

 子供を主人公にしないと絶対に書けないことがあるし、逆に大人じゃなければ書けないこともある。どちらかだけ選んでいたら、書いたことのないものがずっと放ったらかしになってしまう。せっかく作家なんだから出来る事は全部やりたいし、難しい事と簡単な事なら難しい方をやりたい。そんな風に、今後も子供も大人も書いていくと思います。

月と蟹
道尾 秀介・著

定価:1470円(税込) 発売日:2010年09月15日

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