そんな嘉村礒多や川崎長太郎の作品に「無論、それらが悪いと云うのではない。むしろ私怨のこもっていない私小説なぞ、まるで無意味なものである。」と理解を示しつつも、自虐の作法においては、前三者に共感している。
確かに、こんなに自分のダメさを知っている僕を見て! と人目を引きつけておいて、そこに誰かの悪口を書き込んでおくのは品がない。一方で、読んでいて愛想が尽きるような人柄の悪さを露呈して言い訳もせずに筆を擱くのは、おもてなしには欠けるがフェアなやり方と言えよう。サイテーな自分を「ね、サイテーでしょ? 分かってるんだ、自分でも」とか言わずに人に差し出すことは、とても勇気がいることだから。そうした読者への甘えを許さないのは潔癖性の西村さんらしいが、前三者はそのぶん下戸の他二人と違って、酒に甘えて被害妄想気味であると結論づけているところも興味深い。
『私小説五人男――私のオールタイム・ベスト・テン』では、そんな西村さんのエレガントぶりが炸裂している。好きな小説を十作品挙げる企画のようなのだが「こんなときは一応小説書きのはしくれらしく、いかにも自らが生まれついて知的好奇心が旺盛にできてると云わんばかりな濫読ぶりの一部を披瀝したり、“通”の本読みが唸る海外の知られざる作品を挙げてみたり、或いはサブカルに色目を寄せた半可通のしたり顔でもって、吹けばとぶようなものを並べてみせた上で、これぞゼロ年代からテン年代への新文学だなぞ物欲し気な講釈でもぶっておけば、少しは恰好もつくのかもしれない。が、根がどこまでもゲスな土方にできてる私には、如何せんそんな目配りはできないし、またそこまでのお菰根性にも到底なり切れないのだ。」とあって、思わず声をあげて笑ってしまった。十代の頃、親子喧嘩であらん限りの悪意に満ちた言い方で母を責め立てている最中に、よくもそんなに思いついたものだと母が笑い出したことがあったが、こんな気持ちだったのかもしれない。別に私がエレガントな娘だったと言うつもりはないが。
表題にある『私小説五人男』とは、西村さんの愛する藤澤清造、葛西善蔵、田中英光、北條民雄、川崎長太郎のことだが、その中の一人である葛西善蔵について西村さんはこう書いている。
「葛西の周囲の者から疎まれる横柄な言動は、これ即ちその相手に対する信頼感から生じた、葛西一流の愛情表現であるのは確かなことであった。無論葛西も哀しき愛情乞食の常として、相手をしかと見た上で、かような振る舞いを行ない、毒づいている。」(『凶暴な自虐を支える狂い酒』より)
葛西がそんな甘えた暴言の末に、結局は周囲の者に愛想を尽かされてしまうのは西村作品の貫多と一緒だが、葛西に限らず、私小説を書き続けた男たちはみな、そのどうしようもない自分との付き合いの中で、去っていく人々をひとりぼっちで見送る寂しさを生きていたのではないか。筆を持たないときの自分は、たちの悪い甘えん坊の弱虫としてしか生きられないのに、そのみっともなさを書き綴る自分は健気に寂しさを引き受けているのだから、なんと皮肉なことだろう。
小説にすがりつきたい夜もある
発売日:2015年09月25日
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