旅が空間的な移動だとすれば、歴史は時間的な移動である。『後鳥羽伝説殺人事件』や『平家伝説殺人事件』のような「伝説」シリーズだけでなく、浅見シリーズのそこかしこで歴史の積み重ねが感じられる。現代社会は突然成立したものではない。過去からの延長線上にあり、過去の出来事からはけっして逃れられないのだ。
そうした旅と歴史へのこだわりの意味で、古(いにしえ)の都として知られ、観光客の多い京都や奈良は、とりわけ注目したい小説の舞台だろう。
美果がまず訪れた京都の大覚寺の門前では、樹齢二百年はあろうかという松が切り倒されようとしていた。寺の職員が思わず、「鳥羽伏見の戦を見てきたいうこっちゃなあ」と漏らす。たかだか百年余りの寿命しかない人間は、自然界ではちっぽけな存在である。万物の霊長などというのは奢りだろう。歴史の流れからみれば、我々の一生などほんの一瞬にしか過ぎない。
そして、なにも生物だけが人間の歴史を見守ってきたわけではなかった。多くの神社仏閣、そこに収められている仏像、あるいは小道にひっそりと佇む石仏も、歴史の証人なのだ。野辺に転がる小石だって、人間より遥かに長い歴史をもっている。美果に導かれて本書で京都や奈良を回っていくと、とりわけそんな思いが込みあげてくる。
だが、我々は感慨にふけってばかりはいられない。事件の根幹にはやはり過去が色濃く投影されていたが、『平城山を越えた女』は現代の推理小説である。現代社会とそこに生きる人々が織り成す事件なのだ。一九九〇年十月に講談社から書き下ろし刊行された作品だが、この年も平穏無事な一年ではなかった。
長崎市長が天皇の戦争責任発言がもとで撃たれ、兵庫県の高校では校門圧死事件が起っている。八月、イラクがクウェートに侵攻し、湾岸戦争へと発展していった。ドイツが国家統一を果し、自衛隊の平和維持活動(PKO)が論議されている。雲仙・普賢岳が二百年ぶりに噴火し、翌年には大規模な被害を出した。TBSの秋山記者が日本人初の宇宙飛行士になったのもこの年である。やけどを負ったソ連の少年を日本に搬送して救うという心温まる出来事もあった。
そして経済界は、戦後最長の好景気になるかもしれないと浮かれていたが、年末の株価は前年末に比べて大幅に下がり、バブル経済崩壊の兆しが見えはじめる。このとき、日本経済がこれほど冷え込むと、予想した人はどれくらいいただろう。もっとも、『旅と歴史』の安い原稿料をいつもぼやいている浅見光彦には、経済の動向はあまり関係なかったかもしれない。本書にもっとも縁の深いのは、六月二十九日の秋篠宮の結婚だろうか。
過去から現在、そして未来へと、人間の思惑などおかまいなしに刻まれていく時のひと隅を切り取り、事件は起こった。阿部美果もますます深入りしていく。いつもながらの浅見光彦の名推理だが、その結末は人それぞれ受止めかたが違ってくるのではないだろうか。
古都を舞台にした『平城山を越えた女』が刊行されてからかなり時が経った。作中の浅見光彦は当時も今も三十三歳で、これまた嫉妬心を覚えてしまう。現実は時の経過を免れない。この間の浅見光彦ファンにとって最大の出来事は、一九九三年に「浅見光彦倶楽部」が創設されたことだろう。会員数は瞬く間に一万人に達し、翌一九九四年夏には、軽井沢に会員用のクラブハウスが建てられた。極秘情報によれば、そこに行方不明のあの品が展示されているという。さて、本当だろうか。ぜひとも塩沢湖にほど近いクラブハウスを訪れて確かめていただきたい。
(再録)
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