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球児たちの“完全燃焼”を鮮やかに描く

球児たちの“完全燃焼”を鮮やかに描く

文:草野 仁 (キャスター)

『昭和十七年の夏 幻の甲子園――戦時下の球児たち』 (早坂隆 著)


ジャンル : #ノンフィクション

 実はこの間も一切野球ができなかったわけではなく、指導者も球児たちもいつ大会が開かれても良いように、できる限りの練習を続けていたのだ。実際に昭和16年も地方予選は開催されていたのに、日中戦争が長引き日米関係が緊迫する中、7月に文部省が急遽中止決定の通達を出したのだという。その内容は昭和16年から向こう5年間は中止というもので、青春のエネルギーを白球にぶつけて来た球児たちにとって、それは死刑宣告にも感じられる通達であったに違いない。それでも多くの指導者たちは「いずれ必ず大会は再開される。その日のために練習を怠らず続けなければならない」と心に決め指導を継続していたのである。

 日本がアメリカに宣戦布告する前の7月に、既に国内最大級のビッグイベントになっていた夏の甲子園大会を中止にしてしまったことは、国民も含め関係者や球児たちに大きな違和感を与えたことは間違いない。だからこそ翌昭和17年に若者たちの戦意高揚を兼ね、国の主催で「第一回大日本学徒体育振興大会」を開き、その中の一競技として「第一回全国中等学校体育大会野球大会」を行うことになったのであろう。

 この大会は全国中等学校野球連盟の公認する大会としては認められていない。従って朝日新聞社の記録には掲載されておらず、昭和17年の甲子園は「幻の甲子園」と呼ばれたのだという。幻の甲子園には満州と朝鮮の代表の姿は無く、台湾から台北工業がアメリカ潜水艦の攻撃の危険性が増大する中、勇気を振り絞って出場したことを忘れてはならないが、この幻の甲子園を綿密な取材と素晴らしい躍動感溢れる表現力で描いたのが本書である。

 前年中止になっていただけに、指導者も球児たちも甲子園で全エネルギーをぶつけよう、という共通の思いがそこにはあった。幻の甲子園には北海中学、仙台一中、水戸商業、京王商業、敦賀商業、松本商業、一宮中学、平安中学、市岡中学、海草中学、滝川中学、広島商業、徳島商業、福岡工業、大分商業、台北工業という予選を勝ち抜いた16校が勢揃いした。昭和16年に中止になった甲子園での大会が翌年に復活するとは想像もしていなかった球児たちは、歓喜と興奮の中で試合に臨んだという。開幕試合の「京王商業対徳島商業」から決勝戦の「平安中学対徳島商業」に至るまでの一試合一試合が著者の描写力で眼前に浮かび上がり、投手対打者の微細な息遣い、そして観客席の興奮までもが読む者に伝わってくるのである。今後野球はできなくなるかもしれないという不安の中、その分一球一球に懸ける球児たちの集中力は凄まじく、完全燃焼を旨として戦ったに違いない。指導者たちも、またいずれ召集されるという懸念の中でこれが本当に最後の野球となるかも知れぬと感じ、球児たちには希望を持たせてプレーさせようと最大の配慮をしたことは間違いない。そんな幻の甲子園大会の全貌が早坂さんの筆力で鮮やかに浮かび上がってくる。

 今やありとあらゆる備えがなされ、野球技術を磨く環境は整っているが、なぜ野球を学び、なぜ修練を重ね、何を目指していかなければならないのか、この本を読み、是非もう一度じっくり考えて欲しいと思うのである。

単行本
戦時下の球児たち
昭和十七年の夏 幻の甲子園
早坂隆

定価:1,760円(税込)発売日:2010年07月14日

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