宮藤さんは文化的小道具のつかいかたがいつだってうまい。その時代の空気感をまざまざと感じさせてくれるセレクトなのだ。例えば雑誌『スコラ』『GORO』、洋楽ならプリンスとシーラ・E、日本のロックならラフィンノーズやルースターズ、AV女優なら愛染恭子とトレーシー・ローズといった具合だ。どれも時代を映して、そこがツボというあたりを痛痒く押さえてくる。
なかでもぼくが『きみ白(下駄)』を読んで胸を刺されたのは、木曜日の『ビートたけしのオールナイトニッポン』である。テープに録音はしていなかったけれど、ぼくも毎週欠かさずあの深夜放送はきいていた。ぼくと宮藤さんはちょうど十歳違うのだけれど、あの時代の「反抗する少年文化圏」をほぼ同じくしていた。いつかコメディアンになりたいなと、ぼくも真剣に考えていたのである。それが無理なら、ラジオのDJか、書評家がいいなあ。それがぼくの高校時代になりたかった三大職業である。
どうして脚本家と小説家と道が分かれたのだろうと、『きみ白(下駄)』の読後しばらく真剣に考えてみた。分岐点はやはりゲーリー・ムーアとリー・リトナーの選択で、ぼくがナンパなリトナーを選んだせいかもしれない。ブルースやパンクの代わりに、フュージョンやブラックミュージックを選ぶと、どうしても童貞度は低下してしまう。きっとそれがいけなかったのだ。あとは東京生まれなので、ぬるま湯につかったまま恐ろしくも魅力的な板(ステージ)を踏むことができなかったせいもある。別にいいんだけどね。
それ以外にも人が直接発する熱が苦手か、どうかという問題もあるのだろう。ぼくは演劇やライブは苦手で、映画やレコードのほうが好きだった。目のまえで生きている人の熱が耐えがたいのだ。死んだ作家や音楽家は、みなすっきりときれいなものだ。宮藤さんは『きみ白(下駄)』のラストシーンで小劇団のボランティアスタッフになった、その後の男子大学生を描いている。人を信じられる宮藤さんだから、無心で演劇の世界に飛びこめた。同じ人への信頼感が今期人気のドラマ『あまちゃん』の終盤に、隠すこともなくあらわれている。ヒロインは東日本大震災後の地元(重ねてGMT)に、自らの意思ですぐに帰還を果たすのだ。
と、もっともらしいことを書いたけれど、ぼくはあのドラマ一回しか見ていない。正確には十分足らず。こんなことを正直に告白しても、おたがい忙しいから宮藤さんは別に肩をすくめるだけだろう。朝ドラを見るのって、業界の人にはたいへんだから。
宮藤さん、小説デビュー、おめでとう。たっぷり楽しませてもらった。つぎのリクエストは上京後のリアルな非童貞化プロジェクトと脚本執筆の苦闘の物語です。
では、運が良ければ、どこかでまた会いましょう。
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