藤沢周平が「雲奔る」を書いたのは七四年秋である。翌七五年初め、「檻車墨河を渡る」を書き、同年単行本として刊行、そして八二年、文庫化の際に『雲奔る』と改題した。
この時期の藤沢周平は歴史小説に傾斜していた。すでに七三年、鶴岡城下で実際に起こった敵討ちを小説化した傑作「又蔵の火」を書いた彼は、七四年、南部藩の史料から「二人の失踪人」を書き、七五年には新庄藩の政争を、やはり地元の史料から「上意改まる」に書いた。両者ともに.外を思わせる着実な筆致の歴史小説であった。七六年初めには、上杉鷹山が天明年間(一七八〇年代)に着手した米沢藩財政再建を「幻にあらず」に書いた。
七五年から七六年にかけて執筆した『義民が駆ける』は、天保十一年(一八四〇)にわかに幕府が発令した、川越、荘内、長岡の「三方所替え」令に反対する荘内農民・商人の行動を緻密にえがいた作品であった。農民たちは、「所替え」阻止のために組織的に上府し、越訴を繰り返したのだが、背景には酒田・鶴岡の豪商たちの資金援助があり、荘内藩そのものの黙認があった。
農民らは、元和八年以来親しんだ酒井家を慕ってのやむにやまれぬ行動だと主張した。しかし実際は、米沢藩とおなじく財政破綻した川越の殿様に来られては苛斂誅求必至と、生命を賭しての請願であった。また豪商たちには、酒井家がこれまでの借財を踏み倒して長岡に去ることへの現実的な恐怖があり、藩としても、慣れ親しんだ土地を離れがたいというだけではなく、長岡に転封すれば七万四千石、半知に転落する不満があった。
このように荘内藩・荘内地方を、他の東北諸藩と比較しながら客観する条件を整えた藤沢周平は、七六年、『春秋山伏記』の執筆に着手し、また二年間つづく連載小説『用心棒日月抄』に手を染めた。それは『暗殺の年輪』とは一転、明るい色調の物語であった。
雲井龍雄には「逆上(のぼせ)」癖があった。正論を声高に主張してやまず、相手をやりこめるまで満足しない激情の癖である。暮夜ひそかに受けた安井息軒の陽明学講義の影響もさることながら、やはり彼の資質であろう。北国にはそういう人が時々現れた。
七七年、藤沢周平は幕末に活動して暗殺された荘内郷士・清河八郎を主人公に『回天の門』を書いた。清河には「逆上」癖はなく、雲井龍雄とは対照的に「策士」であった。だが二人とも背景に政治勢力を持たない「草莽」という点では共通していた。そして、ともに「草莽」らしく非業の死を遂げた。
米沢藩から出発して、東北地方、ことに羽前の各藩を相対化した藤沢周平は、『回天の門』で再び荘内藩と荘内人をえがき、この道程ののちに海坂藩城下を「ユートピア小説」の舞台として造形した。そうして「海坂藩」は、多くの読者に愛される不滅の城下となった。
だが作家の歴史小説への愛着が消えたわけではなかった。米沢と米沢藩の物語は、彼の最後の大作『漆の実のみのる国』までつづく。その根源の動機は、東北人の誇りの回復と産土(うぶすな)の地への愛着であった。
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