書評

海坂城下へつづく道

文: 関川 夏央 (作家)

『雲奔る 小説・雲井龍雄』 (藤沢周平 著)

 雲井龍雄は、貧になずんだ藩士が生活のために大工仕事、屋根葺き仕事に出精する幕末期に出現した。

 屋体骨の揺らぎ始めた幕府が、過剰な藩士を抱える米沢藩の軍事力に目をつけて接近すると、屋代郷の回復を幕府に認めさせたい米沢藩もこれに応じて江戸詰め藩士を増強した。雲井龍雄のような下級藩士が元治二年二月(四月に慶応と改元、一八六五)、念願の上府を果たせたのもそのためであった。この時期の彼は本名・小島龍三郎で知られ、のち遠山翠を変名とした。雲井龍雄を名のるのは慶応四年三月以後である。

 江戸で龍雄は、安井息軒が主宰する番町の三計塾に学んだ。朱子学に偏さず、攘夷論を脱して世界に目配りする『靖海議』を著した安井息軒はこのとき六十六歳であった。塾の先輩には情報の収集・政治工作に当たる各藩探索方、たとえば長州の桂小五郎、広沢兵助(真臣)、時山直八、品川弥二郎、世良修蔵、土佐の池内蔵太、河野万寿弥などがいて、息軒の教えとともにその人脈が雲井龍雄の財産となった。それはいいかえれば、出身藩の背景と同藩中に同志を持たない彼の限界を示してもいた。

 慶応三年、龍雄は藩から念願の探索方を拝命、政治的策源地たる京都に行った。しかし単独の情報収集力にはおのずと限界があった。公武合体論に傾いていた彼は、その一年前、ひそかに土佐の坂本龍馬らの仲介で結ばれていた薩長同盟に気づかなかった。したがって、公武合体構想を進めるはずの参与会議、四侯会議の壊滅で嘗めた西郷隆盛、大久保利通らの苦さも、薩摩が長州とともに武力討幕に転換したことも知らなかった龍雄は、慶応三年末になっても、「天下藩の十分の七、八は、皆以て復古の議を相拒まれ候様子にこれあり候」、つまり諸藩の大勢は武力討幕にはない、と米沢表に報告した。

 慶応三年十二月二十五日払暁、江戸市中取締りの任にあたっていた荘内藩が江戸薩摩藩邸を砲撃、焼打ちして情勢は激変した。直後に、鳥羽・伏見戦争、徳川慶喜の大坂城脱出、江戸への逃亡と事態は進む。そして慶応四年二月には、東海・東山・北陸三道鎮撫軍(官軍)が、三月には奥羽鎮撫軍が進発する。

 刺客に狙われた雲井龍雄が夜陰にまぎれて京都を去ったのは慶応四年五月三日、東北・白石で奥羽越列藩同盟が締結された、まさにその日であった。

 五月十五日、上野戦争で彰義隊は一日で壊滅する。龍雄が、長岡藩の河井継之助、会津藩の佐川官兵衛を感嘆させた「討薩ノ檄」を書いたのは、米沢を経由して向かった越後の前線でのことであった。その後、彼は反薩長勢力結集をめざして上州に潜行したが、悲惨な失敗に終った。

 雲井龍雄の活動は、すでに京都で終っていた。より酷ないいかたをすれば、活動開始以前に終っていたのである。それは、背景と同志を持たない「草莽の士」の宿命であった。

 明治二年八月に米沢から上京した雲井龍雄は、さながら不平士族の「梁山泊」の頭目のごとく祭り上げられ、新政府に危険視されて明治三年五月、米沢に檻車(かんしゃ)で護送された。八月再び東京に送られ、龍雄の檻車は「墨河」すなわち墨田川を渡った。十二月二十八日、小伝馬町牢屋敷で処刑された。満二十七歳の生涯であった。

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雲奔る
藤沢周平・著

定価:600円+税 発売日:2014年05月09日

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