直木賞を受けた一九七三年の秋、藤沢周平は鶴岡に帰り、講演のため二十数年ぶりに鶴岡・湯田川中学校を訪れた。すでに中年のとば口に達していたかつての教え子たちが集い、女性のひとりは、「先生、いままでどこにいたのよ」と泣き崩れた。長い歳月の円環は、ようやく閉じられた。
受賞作「暗殺の年輪」は酒井家の鶴岡城下をモデルとした海坂藩の物語であったが、まだその相貌は暗かった。翌七四年五月、四十六歳の藤沢周平がはじめて米沢を訪れたのは、旧米沢藩士、雲井龍雄を知るためだったが、現代まで脈々たる古格な面影を保つ城下町、米沢に強い印象を受けた。
万年燈と呼ばれる米沢独特の墓石、その正面に格子状に穿たれた穴は明らかに銃眼であった。城下に敵が迫れば万年燈を並べ沈めて川を堰き止め、城の外堀となすようにされていたのも、戦国の世はつづくと見通した上杉景勝の謀臣、直江兼続の遺産であった。ほとんどおなじ石高なのだが、戦国の雄たる外様大名上杉家と譜代大名酒井家の性格の違いは歴然としていた。
藤沢周平は一九四六年から四九年まで山形師範で学んだ。鶴岡から山形へは、羽越線、陸羽西線、奥羽線と汽車を乗換えて四時間もかかった。上京するときは新潟回りだから、山形の先の米沢は、はるかに遠いところと印象されていた。ところが実際に行ってみると、米沢は山形から汽車で三十分しかかからない。唖然たる思いを味わった。
越後から会津百二十万石の領主となった上杉家は、関ヶ原後の慶長六年(一六〇一)、直江兼続が領した米沢三十万石に移封された。このとき上杉家が五千余人の家臣の召し放ちを行わなかったのは、天下大乱の継続を見通したからである。約六十年後の寛文四年(一六六四)、若い当主が嗣子のないまま急逝して改易の危機に見舞われた。必死の政治工作の結果、半知十五万石として存続することができたのだが、旧領三郡のうち、伊達郡、信夫(しのぶ)郡を失い、置賜(おきたま)郡からも屋代郷三万石が削られた。
平和が持続すれば、物流を中心に経済は活発化し、武家が寄生階級になりさがるのは必然だ。米沢藩の場合、石高が八分の一になっても同規模の荘内藩の二倍の藩士を抱えつづけたのだから、もともと無理な経営であった。
そのうえ内陸の盆地は荘内とは違って海港を持たず、最上川水運の利用も遅れた。窮乏ぶりに音をあげた米沢藩が上杉鷹山襲封の少し前、幕府に封土返上を願い出ようとした行為には政治的デモンストレーションを超えて、一斑以上の真実が含まれていた。
雲井龍雄ら屯田兵ともいうべき五石二人扶持の「原方郷士」もみじめだが、課税率七公三民という度はずれた高さの米沢領民はことさらに哀れであった。上杉鷹山の改革は歴史に名高くとも、結局は敗亡の先伸ばしにすぎなかった。