しかし死ぬことが決まったとはいえ、自分が死ぬことに納得できたわけではなかった。私は肉体的にも精神的にも物凄く健康体で、やろうと思えば腕立て伏せの百回ぐらいはまだまだできるはずだった。意識も明瞭だったし、多少冷静さを失っている点をのぞけば、思考的にも十分論理的に物事を考えられる状態にあった。それなのに状況的には雪の下に埋まっており、次第に息苦しさは増していき、死はもはや避けられそうもなかった。私は自分の身体と状況との間に横たわるこの溝というか矛盾を完全に受け入れることができず、本当に俺は死ぬのか? 何かの間違いではないのか? との疑いを完全に払拭することができないまま、ただ時間だけが死に向かって突き進んでおり、私の意識はそこから取り残されていた。
何の根拠もない話だが、その時まで私は、人間誰しも最期を迎える時ぐらいは、それまでの人生に対して完璧な総括をして、すべてを納得して死ねるものだと思っていた。そういう偉大な瞬間が訪れるものだと漠然と信じ込んでいたのである。ところが実際のところ、この時の私にはそのような偉大な総括の瞬間というのは訪れなかった。自分の人生に、俺はこれをやったのだと納得できることは何もなかったし、逆にやり残したことは無数にあって、それをやるだけの意志と能力と時間も自分には十分あると信じているような、そんな人生の建設途上にいたのである。これから先も続くと信じていた時間と意識が不意に分断されることに私は混乱した。そこに不条理なものを感じて叫び出したい衝動にかられたが、また息苦しくなるのでそれもできず、必死に体を動かそうとするが指先一本微動だにせず、ひたすら無音無動でしばらくもがき苦しんだが、最終的にはその圧倒的な物理的な力の前にもはやどうすることもできないことを悟り、強制的に死を受容させられたのである。
それから七、八分ほどだと思うが、私は死を前にした人間とは思えないほどどうでもいいことを考えながら、大人しく自分が死ぬのを待っていた。そして生きることを観念した頃、雪の向こうから、おかしな幻聴のような声が聞こえてきた。その声はどこか聞いたことがあるような声色で、カクハタさん、カクハタさん……と私のことを呼んでいた。だがそれは幻聴ではなかった。なんと一緒に隣で埋まっているはずの後輩の声だった。彼の独特の少し甲高い声が、ザク、ザクとスコップで雪を掘りだす音とともに聞こえてきたのだった。
『冬山の掟』を読んで私が雪崩のことを思い出したのは、それが非常につまらないことが原因で起きた出来事だったからだ。
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