書評

『冬山の掟』解説

文: 角幡 唯介 (ノンフィクション作家・探検家)

『冬山の掟 〈新装版〉』 (新田次郎 著)

 あの時、私たちは二日目に危険な斜面に雪洞を掘り、結果的にそこで雪崩に遭った。今から考えると明るいうちに安全な場所を選んでそこに泊まっていれば、翌日安全に下山することができたはずだ。というよりも燃料と食料は予備の分が十分に残っていたし、町まではまだ距離が結構あったわけだから、逆にそうするほうが普通だったとさえいえる。それなのに何故焦って下山を急いだかというと、どうしても早く町に下りて焼肉を食べたいと私が言い張ったからだった。そんなどうでもいい欲望を優先させたせいで、我々は危うく死にそうな目に遭ったのだ。

 それと同じようにこの短編集の中で描かれた多くの遭難もまた――私のケースよりはマシかもしれないが――下らないことが理由で起きたものばかりだ。ほとんどの物語で男女関係における変な意識や嫉妬、あるいは男の下らないプライドが山での判断を狂わせて、そして遭難に至っている。

 私がここで下らないと書いたのは、山こそ崇高であり、下界の痴話じみた男女関係や雑事など山に比べると格段に劣る、という意味からではない。あくまでこれらの物語は山を舞台にしているわけだから、登山的価値観からみた場合、下界の雑事を持ち込んで遭難するというのは真剣に山と向かい合うことができていない証拠なので、それにより遭難するのは登山としては下らないという意味である。

 登山というのは判断を繰り返すゲームである。気象によってルート状況は刻一刻と変化するし、天気次第では行動できないことも珍しくない。そのため常に自分のおかれた状態を的確に把握し、それを勘案しながら続行すべきかどうか判断しなければならない。例えば冬山に登りにきたが、悪天候が続いたため三日間の停滞を余儀なくされたとする。その場合、計画よりも大幅に遅れているので下山するという選択肢もあるだろうが、一方で天気図を見ると明日から一日半ほど天気が回復する可能性があるので、もう一日待って登頂を試みるという判断もあるだろう。あるいは雪崩が起きかねない、少しいやらしい雪質の斜面が現れたとする。教科書通りに考えるならザイルを出して安全を確保すべきであるが、場合によっては日暮れが近づき、急がないと安全なキャンプサイトまで到着できない可能性もある。その時はスピードを優先して、確保せずに斜面を登るという判断もあるだろう。

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冬山の掟 〈新装版〉
新田次郎・著

定価:560円+税 発売日:2014年01月04日

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