この本を読みながら私は、七年前に雪崩に埋没した時のことを思い出していた。
二〇〇六年三月、私は大学の後輩と二人で北アルプスの黒部峡谷をスキーで横断していた。長野県側から後立山連峰の針ノ木岳を登って反対側の谷を下り、雪に覆われた黒部湖を渡り、立山連峰のザラ峠を越えて、富山県側の湯川谷に滑り降りるという計画である。初日は天気が良く、針ノ木岳を越えたところでツェルトを張って幕営した。二日目も好天は続き、黒部湖を渡る時には空は突き抜けるように青かった。ところが、ザラ峠に登る頃から上空にどんよりとした雲が広がりはじめた。悪天が近づきはじめたので、我々は何とかその日のうちに下山しようと日が暮れてからも行動を続けたが、しかし真っ暗になった時点で、さすがにこれ以上は無理だと判断し、適当な斜面に雪洞を掘って泊まることにした。
雪崩が起きたのはその夜のことだった。寝袋の中ですやすやと眠っていると、突然猛烈に重い何かがドスンと身体の上に落ちてきて、その衝撃で目を覚ました。それと同時にドドドドッ……という音が耳の中に入ってきて、即座に斜面の上部で雪崩が発生して雪洞がつぶされたことが分かった。私は過去に一度、日光で山スキー中に雪崩に埋まったことがあり、完全に身体が埋没するとそのうち息をすることができなくなることを経験的に知っていた。そのため反射的に手足を動かして、口のまわりの雪をどかして呼吸を確保しようとした。ところが上から重たい雪が絶え間なく積み重なるせいで、私の動きは完全に封印されてしまい、右手で口のまわりの雪を少しどかすことができたのと同時に、もう指先一本動かすことができなくなってしまった。
身体の上に堆積する雪の量はみるみる増しているらしく、つい先ほどまで聞こえていたドドドドッ……という雪のブロックが滑り落ちていく音も、すぐに聞こえなくなった。そして完璧な暗闇と静寂に取り囲まれた。恐怖にかられた私は意味もなく言葉にもならない声を上げて絶叫したが、叫び声をあげた瞬間に口のまわりの酸素が一気に消費されて急速に息苦しくなり、すぐ叫ぶのを止めた。それからというもの、私はただ黙って雪の下で死ぬのを待っていた。状況的にはどう都合よく考えても死ぬのは避けられなかった。狭い雪洞で二人が並んで寝ているところに、もの凄く重たい雪のブロックが落ちてきたわけだから、隣の後輩も埋まっているに決まっている。私たちはこの立山の、死に場所としてはたいしてドラマチックでもない地味な谷底の一角で、人生最期の時を迎えようとしていた。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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