- 2012.03.13
- 書評
“知恵伊豆”と呼ばれた男
この男なくして「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)」はなかった!
文:村木 嵐 (作家)
『遠い勝鬨』 (村木 嵐 著)
ジャンル :
#歴史・時代小説
振袖火事で江戸城が火に包まれたとき、とっさに畳を1枚ずつ引っくり返して巨大な1本線を作り、えんえんと部屋が続く城中で皆が迷わないようにしたとか、庭にかける太鼓橋のカーブに悩んでいた家光に、扇を袖にかざして「このくらい?」と、扇面を閉じつつ角度を再現してみせたとか、戦国生え抜きの古老からは片腹痛いと疎まれそうな危なっかしいエピソードが多い。家光が死んだときは、寵臣だから殉死せよと町の落書にまで書かれたが、柳に風と受け流している。かねがね殉死には反対で、実際に仕事を山と抱えていたからだろうが、これはけっこう根性がいったと思われる。
老中という役目柄、汚い水も飲んだろうし、非情に切り捨てたことも多かっただろう。だがふしぎと政争の影はない。それをしていては絶対に前に行かない時代で、振り返れば戦国という闇が広がっていた。
2010年に『マルガリータ』で松本清張賞をいただいたときから、そんな信綱のことを書きたいと思っていた。『マルガリータ』は弾圧された切支丹が主人公だったので、弾圧した側に立ってみたいということもあった。
ところが調べていると、信綱はあまりに多くのことに関わっているので、島原の乱まで追いかけただけで1冊になってしまった。その手で日本史年表を切り開いたような人物だが、与えられた場所で応分に働いただけだと肩すかしを食わされそうでもあり、そんなに特別視するなと、ずっと言われているような気もした。案外ふつうの人だよねと思っていたら、本当にどこにでもいそうな青年になってしまった。今度信綱のお墓に行ったら、やっぱりちょっと、ごめんなさいと言おうと思う。
禁教も鎖国も、もちろん信綱がやり始めたことではないが、信綱は淡々とそれを踏襲していった。実際に切支丹を拷問したわけではないが、島原の乱では幕府軍総大将として原城を徹底的に壊滅させた。いくさの経験も持たずに12万の軍勢を動かし、島原一国から百姓が消えたといわれるまでに女子供も撫で切りにした。だが籠城者に根気づよく投降を呼びかけ、落ちてきた者を側近に取り立ててもいる。
原城を包囲した二月ばかりのあいだ、信綱は、避けられたいくさだと考え続けていたかもしれない。前線に立つこともなく、はるかに自らの率いる鬨の声を聞いたとき、信綱は何を思っていただろう。個人では抗えない歴史の波に打ち寄せられたとき、幕府軍の一足軽も、原城に籠もる一人の年寄りも、信綱と同じ鬨の声を聞いただろう。立場も生き方も違った人々が、そのとき胸に抱いた思いを書きたかった。