神話をモチーフに
山内 私が面白かったのは、日常の生活感覚が濃密に描かれていることでした。作中、彼らの青春時代を象徴する小道具として「セブンアップ」という炭酸飲料が出てきますね。70年代終わりから80年代、私がカイロ大学にいた頃、「先生、セブンアップ飲みに行きましょう」と学生たちに誘われてよく飲んだものです。アラブではユダヤ系とされたコカ・コーラはご法度でしたから、セブンアップがおしゃれな飲み物というイメージだったらしい。そんな、昔も思い出させてくれた。こうして、この時代の新しい側面を見せる一方で、古くから続く日本の一面も忘れてはいません。昔、商家など大きな家には、子守と雑用なんかをする「ねえや」という少女の使用人がいたものです。ここでも、台所のバターを失敬するねえやがいる、などと書かれていて、実に懐かしかった。私も子供時代、こっそりバターを失敬しては叱られたものです(笑)。
出口 僕は、たとえば「むしろわたしは、思いわずらうのが楽しいのではないのだろうか。まるで、できかけのかさぶたを何回もはがしては、その痛みと痒みを楽しむ時のように」といった描写に実感が湧きました。子供の頃、かさぶた剥がしに熱中した経験がありますから。ディテールが丁寧に書き込まれているところは、実に見事ですね。
山内 そういう実直な生活の描写を一気に飛び越えた存在として描かれているのが、ママ。多種多彩なジャムを丁寧に作るような家庭的な人なのだけれど、酔っ払ったパパの友達にお尻を触られても平気でいるような、どこか隙のようなものがある。ある意味、当時としては貞操観念がずれている。
お節介な武治が、パパは実際の父親じゃないとか、実はパパとママはきょうだいだとか、都たちに匂わせるでしょう。最後まで明確に解き明かされずに推移していくこの謎めいた部分が、小説最終部への伏線となっていて、非常にうまい設定ですね。
出口 この小説の面白さは、パパとママの関係、都と陵の関係に代表されるように入れ子構造を多用しているところにあると思います。社交的で、いろんな人を惹きつける存在としてママを描くことで、都の地味さや孤独さが一層引き立っている。小説ですから、あとは実際に読んで感じていただきたいですね。
片山 付け加えれば、男に対して奔放な大地母神的なママや、秘密を抱えたきょうだい、といった設定は、神話のパターンをうまく現代小説に応用している感じがします。都と陵という名前も意味ありげですね。
出口 都は現世の中心。それに対して陵は、訓読みで「みささぎ」、まさに死後の世界の象徴です。これは想像がたくまし過ぎるかもしれませんが、生と死というモチーフも、この作品の骨格のひとつかもしれません。作中で、陵は何人もの女性と出会い、恋人になりますが、彼女たちはみんな、なぜか心理的に追い詰められ、結局、陵から離れていってしまう。ある意味ではそれは陵が死者の側に立っているからではないでしょうか。生きている人間が、死者の側に立っている人間をいくら求めても、何も得ることはできませんから。
片山 構造主義的な読解ですね。ともあれ、この作品は『水声』というタイトルがいいですよ。人間はほとんど水でできていて、水と水が自然と混ざり合うように人間同士がサラサラと呼び交わす。しかもその水が炭酸水的なんですね。「セブンアップ」がそこで利いてくる。巧みです。
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