- 2015.11.13
- 書評
原典を紐解けばイスラム教の真実が見える
文:山内 昌之 ,文:片山 杜秀 ,文:中江 有里
『コーランには本当は何が書かれていたか?』 (カーラ・パワー 著/秋山淑子 訳)
出典 : #文藝春秋
山内 イスラム教が“極端な女性差別の宗教”とされる象徴である4人まで妻を娶ることができる「一夫多妻制」についても、カーラはアクラムに切り込んでいっていますね。
カーラは、この制度の大義を、慢性的に行われる戦争で生まれる未亡人や孤児の社会救済的な措置だろう、と尋ねる。ところが、アクラムは「それが理由ではない」と言う。米欧のインテリはそう説明されれば納得できるのに、アクラムはやや挑発的に、男性目線で女性の権利を擁護する論理的なシステムだと譲りません。この対立描写こそ興味深いのです。
中江 私が気になったのは、コーランの「女性章」第2章187節にある〈(妻たちは)おまえたちの衣であり、おまえたちは彼女たちの衣である〉というフレーズです。本書では“優しい結婚生活のイメージ”として紹介されているのですが、「おまえたち」と男性主体の文章になっていますよね。もし、この一節が女性主体で書かれていたら、全く雰囲気が変わってくるでしょう。コーランの原典には手出しができないからこそ難しいと改めて思いました。
解釈を巡る永久戦争
片山 中世イギリスのキリスト教会の説教でも、聖書から片言隻句を摘んで、「こう書いてある。だからすべて正しいのだ」と前後の整合性は意図的に無視しても信者をその場で説得してしまえばいいということになっていた。雄弁術というか詭弁術というか。それはキリスト教に限らない話で、仏教でもイスラム教でも、およそ宗教というものはどの部分をどう都合よく解釈して相手を言いくるめるかを巡って宗派が争う歴史に他なりませんよね。「解釈を巡る永久戦争」と言いますか。
山内 神の言葉が啓示としてムハンマドに下った時代はいつかと考えると、日本では6~7世紀にかけて、聖徳太子が辣腕を振るった時代です。我々は現在、聖徳太子の17条憲法を金科玉条として守っていませんよね。ところが、イスラム教では、現代でもムハンマドが受けた啓示が編纂されたコーランの解釈を巡って論争を繰り広げている。ISやアルカイーダのような解釈があれば、アクラムのような解釈もあるのは、ある意味では当然であり、「イスラムとは何か」を一義的に決めていくことは困難です。
片山 原典はどうしても説明不足なのだから、多様な解釈ができるのは当然ですし、本書だってタイトルは「本当は…」ですが、やはり「コーラン」の一つの解釈だとも言えますよね。ただ、原理主義的な極端な解釈をひっくり返すカウンターとして、とても有効な本だと思います。
山内 アクラムの主張は「住んでいる所で信仰を深めなさい」と極めてシンプル。本来、イスラームとは「神への服従」を意味する言葉です。ジハード(聖戦)やシャヒード(殉教)よりも、「神との対話」が解釈の基本だということを改めて認識させてもらいました。
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