書評

「生きるのがしんどい人びと」に贈る幸福論

文: 山内 昌之,片山 杜秀,浜崎 洋介

『無名の人生』 (渡辺京二 著)

義理と人情

片山 私は、著者の幸福論と国家の関係性で、よく分からないことがあります。著者は近代国家を超えるユートピアを考え続けてきた反近代主義者だったと思います。それで北一輝や宮崎滔天がかつて持ち出されたと思いますが、彼らの論理では複雑に発達した現代の権力にはなかなか対抗できない。それで著者は江戸時代はよかったという話に退却したという印象を持っているのです。しかし、この本は現代人の幸福論ですね。コミューン共同体を主張し、国家に頼らず生きていこうという思想と、現代の権力の問題は結局、現在の著者として、どう解決をはかられていることになるのでしょうか。

浜崎 国家に対する距離感の問題だと思うのですが、「国家に対する義理」という著者一流の表現がそれへの答えではないでしょうか。

 つまり、本当の反近代主義者であれば、国家を否定するはずなんです。著者の理論ではどう繋がっているのかというと、詩人の石牟礼道子さんの話を出しながら、私たち人間の根本は無力だ、というのです。生まれたばかりの子どもは全く無力です。そこで親が手をかけて育てるので、家族への愛着や馴染み、つまり人情がある。成長するにつれ、家族だけでは成り立たなくなるから、社会があって、中間共同体があって、もちろん教育があって、その最大の同心円の枠として国家がある。その意味で、国家を抜きにして、今の私たちはあり得ないし、その限りで私たちは国家と関係しているんです。

 ただし、国家は抽象的です。そこで抽象的な国家と、具体的な共同性との関係を、義理と人情という形で語り直すんですね。だから国家が「戦争に行け」と言うとき、義理と人情のどちらを優先するかは、個人の問題であり、自分の尺度での判断だということになります。この点、個人主義的で近代的な感性ですね。

山内 義理と人情を、「集団から離れたい気持ちと離れたくない気持ち」とも言い換えていますね。それはまさに著者自身の出自や体験に根ざしている。中国・大連で育ったコスモポリタン的な感覚。同時に本土への帰属意識。この2つの感性が影響しているのでしょう。

片山 ところで、期せずしてというべきか、『逝きし世の面影』は右派のバイブルとなりつつあるようで。

浜崎 著者自身は若い頃は日本共産党で活動していた人です。江戸時代というのは、逝ってしまったんだ、もう我々は直接繋がっていないんだという著者の悲しみが、よく理解されていないのでしょうね。